メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

宗教全般

何故、宗教を信じるのだろう?

パキスタンの物理学者パルヴェーズ・フッドボーイ氏は、2001年に著した「ムスリムと西洋 - 9 月 11 日の後」という論説の中で、「イスラム教は- キリスト教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、あるいは他のすべての宗教と同様- 平和についての宗教ではない。 …

イスラムの問題/優越と劣等の葛藤

2015年の12月に“Haberturk”で放送された番組でメルヴェ・カヴァックチュ氏(女性)は、アメリカのイスラムフォビアを変動局面的な問題であるとして、かなり楽観的に見ていたものの、ヨーロッパのイスラムフォビアは、過去の植民地史の清算といった側面…

三ノ宮のシナゴーク

北野坂近くにあるユダヤ教のシナゴークは、階段の手すり等が錆びついていたりして、あまり手入れが行き届いていない様子だった。 7~8年前だったか、イスタンブールのタクシムで、ユダヤ系日本人という方に声を掛けられて驚いたことがある。なんでも、ロシ…

正教のミサ

昨日、正教会の日曜ミサは10時ぐらいになってから始まった。典礼は独特な抑揚による日本語で進められていたけれど、これはロシア語の典礼の抑揚を基調にしているようだった。 日本の正教会はロシアの司祭によって伝道されたため、ギリシャ正教ではなく、ロ…

三ノ宮の宗教ツアー?

昨日は夜勤が終わると、三ノ宮から北野坂にかけての辺りを歩いてみた。 まず、その存在を知って以来、気になっていた正教会の聖堂を訪れて見たけれど、少し時間が早かった所為か、日曜ミサは未だ始まっていないようだった。 この教会から1分も歩かない所に…

イスラムはどういう宗教なのか?

日本でイスラムの社会について解説された記事を読んでみると、イスラムの教義から説き起こしている例が少なくない。 しかし、トルコでは、敬虔な信者であっても、教義を事細かに知っている人はそれほどいないだろう。 その多くは、礼拝のやり方や飲食などの…

偽りても賢を学ばんを賢といふべし

私の偏見かもしれないが、既存の権威に対する抵抗として生まれたキリスト教と違って、イスラム教は、元々為政者の側に立っているように見える。そのためか、権威に対する反抗は悉く戒められているという。異教徒が支配する社会で、イスラムの信仰を実践する…

宗教家のビザ?

福岡を去って一ヶ月が過ぎた。福岡にはほぼ2年間いたことになるが、毎日同じ日常が繰り返されたため、あっという間に過ぎてしまった感じもする。 街歩きを楽しむ余裕すらなく、結局、大宰府や志賀島どころか福岡タワーへ登ることさえなかった。思い出に残り…

屋久島の宗教事情

水曜日(5日)、宮之浦のクリーンセンターへ粗大ゴミを捨てに行った際、少し先にある“一湊”という漁港町に寄ってみた。屋久島では、最も北側に位置する町らしい。高台に上がって町を眺め渡せば、港を覆うように海へ突き出した岬の三つ並んだ峰の姿が、なかな…

恐ろしい宗教

イスラム教徒・ムスリムと言えば、何だか、まるで価値体系の異なる宗教的な世界で生きている人々みたいな雰囲気で語られたりしているけれど、トルコでイスラム教徒の人たちと接している限り、これが実際の様相を伝えているとは、とても考えられない。もちろ…

トルコ・日本・韓国・それぞれの歴史に纏わる悩み

トルコの人たちから、「貴方は、“ブディスト”ですか、“シントイスト”ですか?」と良く訊かれる。以前は、これに「両方です」などと簡単に答えていたけれど、そのうち、『果たして、この問いは、日本語にどう訳したら良いのだ?』という疑問が生じてきた。“ブ…

日本の正教会と韓国の正教会

2004~5年にかけて、イスタンブールで正教徒のルムである故マリアさんの家に間借りさせてもらったこともあり、私には正教会がとても身近に感じられるけれど、どうも日本では、カトリックやプロテスタントに比べて、あまりポピュラーな存在ではないらし…

脱イスラムという信仰?

クーデター事件以来、脱イスラム的な政教分離主義者の中からは、ギュレン教団に限らず、全ての教団を根絶すべきだという声が上がっている。ごく少数派の主張に過ぎず、あまり気にする必要はないかもしれないが、ここぞとばかりに、「やはり宗教は恐ろしい」…

戦争と平和

中国の杭州で開催されたG20、もちろんトルコでは、エルドアンとオバマの会談が話題になっている。会談の中身で注目されているのは、シリア情勢、そしてフェトフッラー・ギュレン師の送還である。まだ楽観的には考えられていないようだが、「送還も有り得…

日本教/山を呼び寄せるモハメッドの話

先月の28日の駄文に、自分は俗にいう「日本教」の信者かもしれないと書いたけれど、この「日本教」という言葉は、山本七平が以下の著作で明らかにした「四教合一論的日本教徒」のようなものだと思いながら使っていた。それから、ウィキペディアで「日本教…

質実剛健の気風

昨年の末頃、“YouTube”により、ドイツの農村で「豚の屠殺・解体」を取材した日本のドキュメンタリー番組を観た。 遠い昔、冬の寒さが厳しいその村では、秋の間にドングリなどを食べさせて太らせた豚を屠殺・解体すると、血や内臓も余すところなくソーセージ…

無信仰者の意見に対するムスリムの反応   挙国一致でクーデターに反対「いい加減にしろ!」

(7月25日) 私はイスラム教徒じゃないし、キリスト教徒でもない。家の宗派は一応浄土真宗だけれど、「南無阿弥陀仏を唱えれば成仏できる」なんて話も、もちろん信じていない。 神道にも、伝統的な習俗として、あるいは観光的な面で多少興味を感じる程度…

人を憤激に駆り立てるもの

トルコのイスラム的な保守層の多くは、彼らの“敬虔な信仰”が、政教分離主義のエリートたちから、時代遅れの愚かな行為と見下されたことに、最も激しい憤りを感じていたのではないかと思う。パルヴェーズ・フッドボーイ氏は、「どんな宗教も、その宗教の優越…

犠牲祭

今日、9月24日は“犠牲祭”の初日だった。昨年は、10月4日が初日で、サルガーズィまで散歩に行ったけれど、今年も全く変えることなく、これを繰り返した。サルガーズィの街には、“手回し回転椅子”や“パンチングマシーン”で楽しむ人たちがいて、これも昨…

エギナの聖ネクタリオス

ソウルの聖ニコラス大聖堂で頂いてきた「エギナの聖ネクタリオス」は、まだ“序論”や“訳者あとがき”に目を通したぐらいだが、ネットで検索してみたところ、聖ネクタリオスについては、ウィキペディアにも「エギナのネクタリオス」という項目が掲載されていた…

ムスリムと西洋 ─ 9 月 11 日の後

ムスリムと西洋 ─ 9 月 11 日の後 ─パルヴェーズ・フッドボーイ (Pervez Hoodbhoy) *翻訳は学習院大学理学部の田崎晴明氏 上記は、パキスタンの物理学者パルヴェーズ・フッドボーイ氏が、2001年に著した論説だけれど、今読み返して、また改めて非常な感…

山を呼び寄せるモハメッドの話

夏目漱石の「行人」に以下のような話が出てくる。我執に苦しむ主人公の一郎(兄さん)に対し、友人のH氏(私)が宗教的な信仰を勧める場面である。 ****************** (以下引用)私がまだ学校にいた時分、モハメッドについて伝えられ…

偽りても賢を学ばんを賢といふべし

偏見はなるべくなくしたいけれど、私のように特に宗教を信じていない人間が、宗教について何か考えても、なかなか公平な見方には至らない。とはいえ、宗教を信じている人たちも、こちらをそれほど公平な視線では見ていないと思う。だから、多少偏見が残るの…

クリミア・メモリアル教会

ヨーロッパ側、ベイオウルのテュネル近くにあるクリミア・メモリアル教会。クリミア戦争を記念して、イギリスの人たちにより、1868年に創建されたという。会衆の減少により、一時期、閉鎖されていた時期もあるそうだが、現在は英国国教会により、日曜日…

アッラー(神)は形而上の概念

昨日のナスレッディン・ホジャ云々、アラビアン・ナイトを生んだ社会やオマル・ハイヤームを生んだ社会の現況を考えたら、何の意味もないかもしれない。 しかし、かの国々も、西欧からその価値観まで押し付けられたと感じてしまった為に、自分たちの宗教的な…

韓人教会のピクニック

この3年来、私にとって既に恒例の行事となった“イスタンブール韓人教会のピクニック”に出かけてきた。昨日は、日中、30度近くまで上がっていただろう。もう初夏の陽気で、夏好きの私には嬉しいピクニック日和。例年のように、焼肉やキムチまで御馳走にな…

「はい、解りました」と言わないトルコの人たち

2000本安打を達成したラミレス選手、日本の野球で成功する為には、以下の三つの言葉を理解しなければならないと語ったそうだ。「しょうがない」「はい、解りました」「頑張ります」。これって、野球界に限らず、日本の社会の何処ででも通用する言葉だと…

幸福の科学

イスタンブールの“ブック・フェア”。今年は、最終日の25日に出かけたところ、多くの来場者で立錐の余地もないような大盛況だった。人ごみの中を歩いていると、東洋人が二人、パンフレットを掲げて英語で来場者に声を掛けていたので、どちらから来られたの…

小さな連鎖

どういう本で読んだのか忘れてしまったけれど、山本七平が戦後世代の「戦前の人たちは、何故、戦争を防げなかったのか?」という問いに答えていた。「君の机に片付けなければならない仕事がたくさんあって、それを片付けないと周りの人たちが迷惑するとした…

日本人は気楽で幸せだ・続

自分で言うのはなんだけれど、私も割りと正直なほうじゃないかと思う。でも、私の場合は、本当に厳しい現実に直面することもなく、甘ったれた人生を送って来たから、勇気を出して“正義の嘘”をつく必要もなかっただけに違いない。 嘘ついてまで守らなければな…