メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

何故、人は宗教を必要とするのか?

何故、人が宗教を必要とするのかについて論じた書物を読んだ中で、今までもっとも納得させられたのは、この「漱石の『行人』」に出て来る『山を呼び寄せるモハメッドの話』」だった。

モハメッドは人々に「山を呼び寄せて見せる」と約束し、それを実行に移そうとするけれど、山が全く動かなかったため、それでは仕方がないと自ら山に向かって歩いて行ったという話。

作中のH氏は、我執に苦しむ友人を宗教へ誘おうとしてこの話を語り、「君は山を呼び寄せる男だ。呼び寄せて来ないと怒る男だ。地団太を踏んで口惜しがる男だ。そうして山を悪く批判する事だけを考える男だ。なぜ山の方へ歩いて行かない」と友人に問いかけるのである。

しかし、H氏自身は、「実を云うと、私は耶蘇にもモハメッドにも縁のない、平凡なただの人間に過ぎないのです。宗教というものをそれほど必要とも思わないで、漫然と育った自然の野人なのです」と告白している。これもまた、日本人の多くが余り熱心な信仰を持たない理由を巧く言い当てているような気がする。

ところで、山本七平が「四教合一論的日本教徒」として紹介した不干斎ハビヤンは、自らを「江湖の野子」(俗界の野人)と記していたそうだけれど、他にも日本人を「自然の野人」であるとか「俗界の野人」と表現した例はあるのだろうか? あるいは、漱石も不干斎ハビヤンの書物に目を通していたのだろうか?

東北大震災の後だったと思うが、あるフランス人の識者は、被災者の方たちが「天災だからしょうがない」と言いながら復旧作業に取り組む姿を見て、この「しょうがない」は日本人が運命の受諾を表している宗教的な言葉ではないかと分析していたらしい。

1999年の「トルコ西部大地震」では、クズルック村の工場もかなり被害を受けたが、震災後の初めての会議で日本人出向者の社長は「地震は運命だからしょうがない。今後のことを話そう」と言った。これを聞いた信心深いエンジニアのアブドゥルラーさんは、私の肩を突っついて「君の訳は間違っていないか? 社長は本当に運命(kader)と言ったのか?」と問い質したのである。

社長は、イスラム教徒のトルコ人社員たちから「無神論者」と思われていたため、その社長が、イスラムで信仰の要点となっている「運命」という言葉を使ったのは、とても奇異に感じられたらしい。

一方、アンカラ大学のイスラム神学部を出て、宗教科の教員を務めていた友人は、日本語を学んで長年にわたり日本人を観察した結果として、「日本人の多くは全ての宗教を少しずつ信じているようだ。だから、宗教の全てを否定しようとするトルコの無神論者たちとは全く違う」と分析していた。友人も、山本七平の「四教合一論的日本教徒」を読んでいたのだろうか? いずれにせよ、なかなか面白い分析だと思った。

トルコの無神論者は、大概、運命を真っ向から否定する。全ての事象には科学的な合理性があるそうだ。私たちのように「しょうがない」と言って片づけたりしないのである。

しかし、日本でもそういった傾向が見られる人は、結構いるかもしれない。何にでも科学的な合理性を追求しようとする。その割には、人生の意義やら意味について語ることも少なくない。

人生に意義とか価値を見出したいのなら、宗教でも信じた方がよっぽど楽であるような気がする。神のために生きれば良い。科学的に考えたら、人間は生まれてから不特定の期間を生きて死ぬだけである。人生に意味などないと思う。人の一生と猫の一生に何の違いがあるのだろう?

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