メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

イスラムの社会性?/ギュレン教団の宣教活動

2017年の2月頃だったと思う。トルコの時事討論番組でイスラム神学者と思われる出演者が、「ISやギュレン教団が、何故、あれほど歪な信仰に囚われているのか? それは彼らに“祖国”という概念がないからだ」と語っていた。

左派らしい出演者は、呆れかえったように、「貴方は本当に神学者なのか? イスラムにあるのはウンマイスラム共同体)であって、もともと“祖国”の概念なんてなかったじゃないか!」と反論していたけれど、統治者側の立場で教えが説かれているように見えるイスラムでは、社会への反抗が戒められているくらいだから、反祖国的な考えも否定されているのではないだろうか?

福岡で知り合ったムスリム・インド人の就学生に、「インドの軍にはイスラム教徒もいるんですか?」と訊いたら、「たくさんいますよ。私の父も祖父も軍にいました」と言う。 イスラムの教えでは、まず自分たちが住んでいる国を第一に考えるので、パキスタンと戦争になっても問題にならないそうである。

日本や韓国のプロテスタントの友人たちを見ていると、彼らと神との間には個人的な強い絆が感じられるものの、イスラムの場合、個人と神の間に社会が介在しているような気がして、もともとプロテスタントの強い信仰とは、少し趣の異なる宗教なのかもしれない。人々は、その時々の社会の要件に合わせようとするため、プロテスタントよりも、却って非常に世俗的な宗教じゃないかと思ったりする。

キリスト教徒は無人島に独り流れ着いても信仰を失わないが、イスラム教徒はその社会から離れた時点で、既にイスラム教徒ではない」なんていう例え話も聞く。イスラムはその社会があってこそ成り立つ宗教だというのである。

だから、インドのように一定のイスラム人口を有する社会ならともかく、イスラムが社会を構成する要素とは見做されていない日本の社会で、日本人の一人がイスラム教徒になるのは特に勧められることでもないのだろう。

そのため、東京ジャーミー(モスク)のイマームイスラム教導師)は、日本人の母親に育てられているトルコ人の遺児をイスラム教徒にさせようとは思わなかったのかもしれない。

そもそもイスラム教では、キリスト教と異なり、宣教活動が勧められていない。宣教を行っているのは、ギュレン教団のような特殊なカルトに限られている。ギュレン教団は日本の各地で運営しているトルコ語学校やインターナショナル・スクールを通して、熱心に宣教活動も行っていた。今でも行っていると思う。

しかし、キリスト教の宣教が、教会を中心に公然と行われているのに対し、ギュレン教団トルコ語学校やインターナショナル・スクールは表向き非宗教的な施設となっている。そこで、もともとトルコの文化や言語に興味を懐いて来た受講生たちへイスラムの宣教を行うのは、良く考えてみれば少し問題があるような気もする。インターナショナル・スクールに至っては、イスラムばかりでなくトルコとも表向きは関連がないはずである。

教団はこうして日本でイスラムの宣教に携わっているのだから、欧米で運営しているトルコ語学校でも密かに宣教を行っているのではないだろうか? 表沙汰になれば、キリスト教界からも反発があるように思えてならない。