メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

戦争と平和

中国の杭州で開催されたG20、もちろんトルコでは、エルドアンオバマの会談が話題になっている。会談の中身で注目されているのは、シリア情勢、そしてフェトフッラー・ギュレン師の送還である。
まだ楽観的には考えられていないようだが、「送還も有り得るのではないか」と論じる識者は増えているかもしれない。
少なからぬ識者たちが、これを「賞味期限の問題」と見ている。
つまり、アメリカは、ギュレン師の賞味期限が切れたと判断すれば、送還に応じるだろうし、さもなければ決して手放さないというのである。
1999年、PKKの指導者オジャラン氏は、突然、トルコへ引き渡されたが、あれはアメリカにとって、オジャラン氏の賞味期限が切れてしまったためらしい。その数か月後には、ギュレン師がアメリカのもとへ引き取られている。
トルコの人たちが恐れているのは、ギュレン師の賞味期限が切れていない場合、また何か仕掛けて来るのではないかという疑念だろう。トルコは、セーブル条約・分割の悪夢から完全に醒めていない。
しかし、現在の世界は、トルコや中東に限らず、欧米から極東に至るあらゆる地域で、先行きの見えない状況が不安を駆り立てているような気もする。
私個人の先行きが暗くなっても大した問題じゃないけれど、世界情勢の先行きがはっきりしないのは、確かに大きな不安であるはずだ。
歴史の歯車が外れて、どっと流れ出してしまえば、小さな人間が英知を集めても、それを押し止めることは出来なくなってしまうかもしれない。
トルストイの「戦争と平和」も、そういった歴史に翻弄される人々を描いた小説ではなかっただろうか?
私はあれを随分苦労して何とか読み終えた覚えがある。本編は2巻目を過ぎた辺りから、わりと快調に読み進められたが、やっと本編が終わったと思ったら、エピローグに付録というのが、それからさらに178ページも続いてうんざりした。
本編の小説よりもまた遥かにややこしい哲学の解説みたいな話だから、途中で何度も放棄しようと思いながら、一応最後まで読んだ。どの程度理解できていたかは全く心許ない。
このエピローグの中に、「人間の行為の非自由性」なるものを延々と論じている部分がある。
これを私は、『人間が自分の意志で行ったと思っている行為も、なんらかの運命的な力に支配されているのではないか』という風に理解したけれど、例えば次のような説明が試みられている。
「・・1分間前に行った行為を検討するならば、その行為は疑いもなく自由なものと思われるであろう。〈中略〉10年ないしそれ以上も昔の行為を回想するならば・・・・・・もしこの行為がなかったらどうだろう、というようなことを想像するのに、極めて困難を覚えるだろう・・・」
私はこのくだりを読んで、「そんなこと当たり前じゃないか」と思ってしまった。ところが、この後も数ページにわたって、同じような説明が何度も繰り返されるのである。
私たち日本で育った人間の多くは、こういう運命的な何かを、よく考えもせず、なんとなく当たり前な事としてそのまま受け入れてしまっているように思えてならないが、どうだろうか?
私たちが余り宗教に入り込まない理由もここにあるような気がする。