メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

2007-01-01から1年間の記事一覧

東京ジャーミー(モスク)

東京ジャーミーのキッチンに私を引っ張り込んだトルコ人、当時、既に滞日10年ぐらいじゃなかったかと思うけれど、彼は別の日に、また東京ジャーミーへ私を引っ張って行ったことがあります。 なんでも、ジャーミー(モスク)のイマームさんに折り入って頼み…

若者よ恐れるな(東京ジャーミーの出来事)

久しぶりにモーツァルトの魔笛を聴きました。と言っても、“夜の女王”のアリアを2曲とフィナーレを聴いただけです。 そもそも今までに購入した魔笛のレコード・CDは全てハイライト盤で、全曲を聴いたことは一度もありません。 高校の時に初めて聴いて、以…

イスタンブールに乾杯

京都の日本トルコ文化協会が発行している“キョプル通信”の秋号に、「イスタンブールに乾杯」と題した私の投稿記事が掲載されたので、こちらでも紹介させてもらうことにしました。実際にこの記事を書いたのは6月末のことであり、8月の末まで暮らしていたウ…

イスタンブールのプール

クズルック村の工場で働いていた頃は、週末にイスタンブールへ出て来て、市民体育館のような施設の屋内プールで泳いだりしたこともありました。 入場料は、5~600円だったように記憶していますが、今はもっと高くなっているでしょう。ここ数年、とにかく…

船が沈没?

イスタンブールは暑い日が続いております。ボスポラス海峡からマルマラ海にかけて、イスタンブール周辺の海は結構水がきれいで、いくつか海水浴場もあるけれど、子供たちは所構わずそこいらの海岸から飛び込んでいるようです。4、5年前、やはり同じように…

オランダ貴族の女性

91年にイズミルのトルコ語教室で学んでいた頃のことです。同じ教室に、トルコ人男性と結婚しているオランダ人の若い女性がいました。 何という御名前だったか忘れてしまったけれど、姓の前にヴァンデルが付くことだけは良く覚えています。というのも、彼女…

古き良きトルコの思い出

前回の“キャリアウーマンの涙”という話、イズミルに近いマニサのホテルが舞台だったのですが、このマニサには大規模な工業団地があり、今月の上旬も、この団地内の工場に出張する機会を得て、あのホテルに宿泊したけれど、まあ今回はこれといったトラブルも…

キャリアウーマンの涙

イスタンブールで高層ビルが立ち並ぶレヴェントの辺りへ行くと、キャリアウーマン風の女性がビジネススーツに身を固めアタッシュケースを手に颯爽と歩いていたりします。 地方都市のホテルでも、こういった女性が一人で夕食を取っている姿を見掛けたりするけ…

目標は大西洋

先月は、イスタンブールとイズミルで靴メーカーの工場を見学する機会を得ました。 イスタンブールの靴メーカーは設備の整った工場で高級紳士靴を製造しており、西欧へも多くの製品を輸出しています。 創業社長の次男という未だ若い方が工場内を案内してくれ…

40日供養-追悼ミサ

久しぶりに“トルコ便り”を更新させますが、楽しい話題ではありません。この“トルコ便り”で何度か御紹介した旧居の大家マリアさんが、去る4月29日に亡くなり、昨日はイスタンブール市内の墓地でその40日供養が営まれました。カソリックで言う“追悼ミサ”…

高校時代の思い出

先日、高校時代の思い出を一つ書いたけれど、果たして自分はあの三年間でいったい何を学ぼうとしていたのか、とんと思い出すことができません。まずどんな本を読んでいたのかさっぱり思い出せない、というより本は殆ど読んでいませんでした。授業で何を学ん…

バックハウス最後の演奏?

クラシック音楽で、“どの曲には誰の指揮が良い”なんていう付け焼刃の知識は、殆どが高校時代に同級生の友人から得たものでした。友人は御両親が音楽の先生だそうで、子供の頃からクラシック音楽に慣れ親しんでいて、実際、なかなか造詣が深かったんじゃない…

トルコの牧羊犬

91年の夏、イズミルにいた頃、市の中心部から湾を隔てた向こう側に見える禿げ山へ登って見ようと思い立ち、その方角へ向かうバスに乗って終点の村まで行き、村人に頂上へどうやって登れるか尋ねたところ、村人は「山の上まで登るのは難しいが、とにかく山…

アルメニア正教の教会

イスタンブールのベイオウル街、チチェック・パサージュから入る横丁は“バルック・パザル(魚市場)”と呼ばれ、魚屋さんや八百屋さんの店も出ているけれど、店頭でムール貝などを揚げたりしている酒場が軒を並べ、夕刻が迫ると未だ明るい内から辺りは喧騒に…

トルコの医療問題?

先々週、旧居の大家マリアさんが熱を出して3日ほど寝込んでしまいました。その際に、リンパ腺か何かが腫れたらしく、念の為、病状が落ち着いてから、その辺りでは評判が良いアルメニア系の病院へ行ったところ、レントゲンやら採血やら色んな項目で検査を受…

イズミルの冬の思い出

今年の日本は例年にない暖冬だそうですが、イスタンブールでも薄気味悪いほどの暖かい冬が続いています。先週はちょっと雪がちらつく日もあったけれど、今日はまた随分と暖かく、我が家自慢のスチーム暖房も全く出番がありません。おそらく、トルコで迎えた…

トルコのムスリムと豚肉

昨年、日本へ往来した際、親しくしているトルコ人の家族に、日本のお土産として“カレーのルー”を買って来ました。大学生の娘さんは日本へ旅行したこともあり、家族の皆がカレーを喜んで食べていたからです。 ところが、いざこのお土産を渡してみたところ、お…

ギリシャ語を話すトラブゾンの人々

2004年のいつ頃だったかギリシャへ出掛けた際、帰りのバスで、トルコ語とギリシャ語を話す青年に会いました。 国境のギリシャ側の免税店で、青年が両方の言語を使い分けている様子を見て、ルームと呼ばれるトルコ国籍の正教徒ギリシャ人か、さもなければ…

白昼暗殺されたジャーナリスト

昨日の夕方、イスタンブールは新市街のタクシム広場を通ったら、広場の一隅に凄い人だかりが出来ていたので、「何だろう?」と思いながら近寄ってみたところ、人だかりの中ほどにアルメニア系の著名なジャーナリスト“フラント・ディンク氏”の顔写真が掲げら…

カザン・ディビ

未だトルコへやって来る前、「トルコへ行ったら是非食べてみたい」と思っていた“未知の食べ物”が三つあります。その一つが、上記の“羊頭の丸焼き”。次は、“ス・ボレイ”というもので、日本語に訳せば“水パイ”です。学習していたトルコ語の教科書に「美味しい…

日本統治下のピョンヤンで生まれたトルコ人の老紳士

友人の引き合わせで、昨年、市内にお住まいの80歳になるトルコ人の方とお近づきになり、昨日はこの老紳士から昼食を御馳走になったうえ、色々お話を伺う機会に恵まれました。この方の御両親はロシアのバシコルトスタン出身のタタール人、御自身は日本統治…

どんな歌を聴いて来たのか

子供の頃、家にあった78回転レコードの中には、父が戦前に買い集めたドイツの歌謡曲などもありました。映画「会議は踊る」の挿入歌から“ただ一度だけ”であるとか、“モンテカルロの一夜”“水夫の恋”などという当時流行った歌謡曲です。 私は小学校3年か4年…

クラシック音楽のコンサート

昨夕は、友人がトロンボーン奏者を務めた“カドゥキョイ・ベレディエスィ・フィラルモニア・イスタンブル”管弦楽団の演奏を市内のコンサートホールへ聴きに行きました。 演奏されたのは、ハチャトゥリアンのバイオリン協奏曲とフランクの交響曲で、いずれも初…

なかなか融通が利いてしまうトルコの銀行

私が良く利用している近所の銀行では、警備員さんが笑顔で利用客へのサービスにも努めています。 例えば、自動預払機(ATM)の使い方を知らないおばあさんが来れば、カードを受け取って自ら差し入れ、「おばあちゃん、暗証番号は?」。 おばあさんも紙切…

イスタンブールの正教徒

昨日、イスタンブールでは、ギリシャ正教徒たちによる“キリストの生誕と洗礼”を祝う行事が催されていました。これは、司祭が海へ投げ入れた木製の十字架を、正教徒の男たちが冷たい海に飛び込み、競い合って取りに行くというもので、コンスタンティノポリス…

韓国人の熱き友情

これも、1990年に東池袋のボロアパートから魚河岸へ通っていた頃の思い出です。 私は87年の夏から、ソウルにある延世大学の語学堂に留学していました。89年の冬に日本へ戻り、ある韓国の会社の東京支店で働き始めた頃、韓国から来ていた留学生のキム…

中国人のホスピタリティー

1990年、東京の大学書林でトルコ語の学習を始めた頃のことです。私は築地の魚河岸でトラックによる配送のアルバイトをしていました。早朝、2tトラックで魚河岸に乗りつけ、場内の卸商から荷車によって運ばれてくる鮮魚等をトラックへ積み込み、多摩地…

強制送還されてしまった友人夫婦

昨日の“犠牲祭の思い出”の続きです。 黒海地方オルドゥ県のユンエで小・中学校の教員をしている友人とは、1998年に名古屋で知り合いました。当時、彼は出稼ぎで日本に来ていたのです。 97年に大阪で日本とトルコのサッカー親善試合が催された時、競技…

犠牲祭の思い出

今年の犠牲祭の行事には参加する機会がなかったので、今日は2000年の犠牲祭に、黒海地方のオルドゥ県で友人の家族と過ごした時の思い出をお伝えすることにします。 友人はオルドゥ県の黒海に面したユンエという小都市で小・中学校の教員をしていますが、…