メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

強制送還されてしまった友人夫婦

 昨日の“犠牲祭の思い出”の続きです。

黒海地方オルドゥ県のユンエで小・中学校の教員をしている友人とは、1998年に名古屋で知り合いました。当時、彼は出稼ぎで日本に来ていたのです。

97年に大阪で日本とトルコのサッカー親善試合が催された時、競技場で名古屋から来たというトルコ人のグループに会い、「是非名古屋へ遊びに来てくれ」と言われていたので、翌98年の夏、名古屋に彼らを訪ねてみたところ、木造2階建てのボロアパートにトルコ人ばかりが住んでいて、さすがに驚かされました。

それから、彼らの車2台で南知多辺りの海水浴場へ出掛けたのですが、夕方になって彼らと一緒に海岸通りを歩いていた時にも、他のトルコ人グループと出会ったりして、「いったいここは何処なんだ?」という思いに駆られたものです。

夜も更けて、今度は「さて何処に泊まるというのだろう?」と思っていたら、車のシートを倒し、「貴方はお客様です」と言いながら私をそこに寝かせ、乗り切れない者は、駐車場に茣蓙を敷いてそこで夜を明かしていました。

彼らは全員オルドゥ県の出身で、お世辞にも“教養がある”とは言えない連中だったけれど、仲間から「先生(ホジャ)」と呼ばれている人物だけは、教養もあり極めて紳士的でした。これがその友人だったのです。

私はその夏、4年ぶりにトルコへ復帰し、名古屋の連中とはそれっきり会う機会もなかったのですが、99年の暮れに“もしや”と思い、メモにあった友人のユンエの電話番号に掛けてみたら連絡がついて、翌2000年の犠牲祭に前述の如く再会を果たしました。

名古屋で私と会った頃、友人は未だ日本へ来たばかりで、それから直ぐに奥さんも日本へ呼び寄せ、二人して愛知県内の工場に住み込んで働いたそうです。ところが、一年ほど経ったある朝、だしぬけに寮を訪れた入管の人たちから、「もうトルコへお帰りになる時が来ましたよ」と告げられ、強制送還されてしまうことになります。

友人夫婦は突然の出来事に驚き悲しんだものの、入管の施設では係りの人から親切に声をかけられ、特に奥さんは、女性の係員とトルコに残してきた子供たちのことを語り合い、「そんなお子さんがいるのに夫婦で国を離れてはいけませんよ。これからは家庭を大事にして下さいね」というように慰められて、思わず涙をこぼしてしまったそうです。

しかし、友人は日本へ立つ前まで高校の教員をしていたという話だし、犠牲祭の第一日目には、奥さんの実家が相当な資産家であることも分かったから、『何故、夫婦で日本へ出稼ぎなどに行ったのだろう?』と疑問を感じてしまいました。

犠牲祭の二日目、友人は町のあちこちを案内してくれたのですが、途中、ある家の前まで来てから、「実を言うとここが僕の実家なんだよ」と言い、私を招き入れます。家は立派な造りだったけれど、中はなんとなく寂れた雰囲気で、友人のお母さんであるという老婦人が一人で住んでいるようでした。

友人の実家であるというのに、そこではほんの30分ほどお茶を飲んだだけで、そこを後にすると、直ぐにまた奥さんの実家へ戻りました。友人は道すがら、寂しそうに、「君はもう長いことトルコにいるから、これがトルコでは如何に異常なことであるか解るよね」と言います。

それから友人が物語ったところによれば、彼がこの町で奥さんと結婚した頃は、彼の実家も奥さんのところと一二を争う資産家だったのに、その後、弟が事業に失敗して家の資産を蕩尽してしまった為、彼は奥さんの実家で、入り婿同然の立場に追いやられ、夫婦ともども悔しい思いをしたことから一念発起し、教職を退いて日本へ出掛け、夫婦共に頑張って働いたのだそうです。

夫婦が日本で働いていた頃、下の男の子は未だ小学生であり、確かに如何なる理由があろうとも、子供を国に残して日本へ来るべきではなかったかもしれません。しかし、今はその男の子もアンカラの一流大学へ進み、大いに将来が期待されていると聞きました。

友人のところへは、とうとう今年の犠牲祭にも行くことが叶わなかったけれど、なんとか暖かくなる頃には再訪を遂げてみたいと思います。