メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

犠牲祭の思い出

今年の犠牲祭の行事には参加する機会がなかったので、今日は2000年の犠牲祭に、黒海地方のオルドゥ県で友人の家族と過ごした時の思い出をお伝えすることにします。

友人はオルドゥ県の黒海に面したユンエという小都市で小・中学校の教員をしていますが、この年の犠牲祭には、ユンエから山間に暫く入った町にある奥さんの実家へ帰省していました。

私も犠牲祭が始まる前日の晩に町へ入り、友人と共に奥さんの実家で犠牲祭の朝を迎えたところ、友人を初め家族の男たちは、先ず町のモスクへ“犠牲祭の礼拝”に出掛けます。私は一緒にモスクの前まで行ったけれど、礼拝には参列せずに、その辺を散策しながら、礼拝が終わるのを待ちました。

多分、この礼拝には町の男たちが全員参列していたのでしょう。モスクでは中庭に至るまで、堂内に入りきらない参列者が鈴なりとなって礼拝を営んでいました。

礼拝が済むと、今度はモスクの門前に参列者が並び、順に犠牲祭の挨拶を交わすことになります。この時に注意して見ると、友人の岳父は順列の先頭となる門の直ぐ前に立ち、他の参列者より一層の敬意が込められた挨拶を受けているようでした。後で友人に訊いたら、岳父はこの町一番の名士なんだそうです。奥さんの実家は四階建てぐらいのビルで、それほど贅沢な造りでもなかったけれど、隣のビルも所有していたようだから、やはり相当な資産家なのでしょう。

こういった形式的な挨拶やヒエラルキーには抵抗を感じる人もいるかもしれませんが、これによって町の安寧秩序は穏やかに無理なく守られているのではないかと思います。

挨拶も済んで家に戻ると、いよいよ支度をして、生贄を切りに行くわけですが、この年は、少し離れた村に住む親戚の所で切ることになっており、三台の車に分乗して出発しました。

親戚の所へ着くと、広い庭では子供たちが牛と羊を相手に遊んでいて、どうやらこの2頭が生贄として屠られるようです。

準備が整うと早速祈りが捧げられて、先ずは羊から屠りにかかります。おとなしく寝かされた羊の喉の方から切り込んでいくと、夥しい血が流れ始め、羊は痙攣したようになるけれど、直ぐには絶命しません。

友人の中学生になる長女は、先ほどこの羊と遊んでいた幼い子供たちの肩に軽く手を置いて、一緒に羊の方を見るよう促します。一人は痙攣する羊を見てちょっと嫌な顔をしたものの、長女が静かに「見て生死を争っているのよ」と言うと、頷いて目を背けずに、羊の首が落とされ完全に絶命するまで、それを見守っていました。

この長女はとてもお茶目な娘で、人の好い優しいお父さんをからかって、キャッキャッと笑ったりすることがあるけれど、この時ばかりは最後まで緊張した真剣な表情を崩しませんでした。

羊の次に牛が屠られる番になると、大きな牛を押さえる為に私も手を貸したのですが、牛は首を落とされた後も足を痙攣させ、その強い生命力を見せつけます。私はこれを見て驚きながら、死の凄まじさに厳粛な思いがしたものです。