メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

韓国人の熱き友情

これも、1990年に東池袋のボロアパートから魚河岸へ通っていた頃の思い出です。

私は87年の夏から、ソウルにある延世大学の語学堂に留学していました。89年の冬に日本へ戻り、ある韓国の会社の東京支店で働き始めた頃、韓国から来ていた留学生のキムさんと知り合い、蛮カラで如何にも韓国の男らしいキムさんと私は直ぐに意気投合したのですが、彼はまもなくして日本を離れ、韓国に帰って就職してしまいます。

そして、その後は、私が韓国を訪れると、必ずキムさんが自分の家に招いて泊めてくれたものでした。

私が魚河岸へ通うようになったのは、90年の正月になってからだから、あれはその頃の話だったのか、それとも90年の暮れだったのか、はっきり覚えていないけれど、とにかく相当に寒い時期のことです。

キムさんが日本へ遊びに来て、「何日かお前のアパートに泊まっていくよ」と言い出したので、私はちょっと困ってしまいました。というのも、私のボロアパートに寝具は一式しか無かったし、夜ストーブを消してしまえば、部屋はしんしんと冷え切ってしまうからです。

韓国は全羅南道のキムさんの実家は、当時、映画館を数軒も経営していたほどで、彼はその気になれば東京の一流ホテルにも宿泊できたはずなのに、なんでまた私のボロアパートに泊まろうとしたのかと言えば、それはつまり、彼なりの熱い友情を示したかったからなのでしょう。韓国の人たちは、えてしてこういう熱烈な感情の表出を好むものです。

それで、どうしたら良いものかと考えていたら、ふと思い出したのが押入れの奥にしまい込んであった寝袋でした。それは、韓国から帰国してこのアパートに入居した時、母が「この寝袋は薄いけれどとても暖かいからね。いざとなればこれだけでも充分に寝られるよ」と言って渡してくれたものだったのです。

アパートを訪れたキムさんに、「どうだろう。使ってみたことは無いけれど、結構暖かいらしいよ」と言いながら寝袋を出してみせると、彼は「おっ、上等な寝袋じゃないか。お前のところに泊まれるんだったら、俺は寝袋でも何でも構いはしないんだ。ありがたく使わせてもらうよ」と大いに喜んでくれて、夜になると嬉しそうに寝袋の中にもぐり込み、その笑顔だけを覗かせて芋虫のような格好で寝転びながら、「うん、なかなか快適なもんだ」と言うから、それで私も安心して自分の万年床につきました。

翌朝の4時半、私はいつものように目覚めると、まだ寝袋の中で寝ているキムさんを起こさぬよう、静かに万年床から抜け出して、魚河岸へ向かいました。

こうしてキムさんが、私の部屋で、3日泊まって行ったのか、5日ぐらい泊まって行ったのか、これまた良く覚えていないけれど、その後、韓国へ行ってキムさんと会っても、お互い寝袋の話などはすっかり忘れて、話題にもしませんでした。

それが、99年の3月頃、トルコから一時帰国していた私は、よんどころない事情により、あの寝袋を使わなければならなくなったのです。その頃は、キムさんがボロアパートに泊まって行った時期に比べれば遥かに暖かくなっていたものの、その薄っぺらな寝袋は全くと言って良いほど保温性が無く、寒がりの私はブルブルと震えながらなかなか寝付くことができませんでした。

その後、2003年の夏に韓国でキムさんに会ってこの話をしたところ、彼は愉快そうに笑ってから、「なんだ結局お前もあの寝袋を使ったのか? あれはもの凄く寒かったよ。正直言って俺も良く寝れなかったから、毎朝お前がごそごそ起き出す時も気がついていたけれど、心配かけると悪いから寝たふりをしていたんだ。それから、お前が出て行った後、お前の布団に入ってもう一眠りしていたというわけさ」と打ち明けたのです。

彼とは知り合った頃に良く日韓大激論みたいなこともやったけれど、その熱き友情は片時も忘れたことがありません。