メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

山を呼び寄せるモハメッドの話

夏目漱石の「行人」に以下のような話が出てくる。我執に苦しむ主人公の一郎(兄さん)に対し、友人のH氏(私)が宗教的な信仰を勧める場面である。 
****************** (以下引用)
私がまだ学校にいた時分、モハメッドについて伝えられた下のような物語を、何かの書物で読んだ事があります。
モハメッドは向うに見える大きな山を、自分の足元へ呼び寄せて見せるというのだそうです。それを見たいものは何月何日を期してどこへ集まれというのだそうです。 
期日になって幾多の群衆が彼の周囲を取巻いた時、モハメッドは約束通り大きな声を出して、向うの山にこっちへ来いと命令しました。ところが山は少しも動き出しません。モハメッドは澄ましたもので、また同じ号令をかけました。それでも山は依然としてじっとしていました。モハメッドはとうとう三度号令を繰返さなければならなくなりました。
しかし三度云っても、動く気色の見えない山を眺めた時、彼は群衆に向って云いました。――「約束通り自分は山を呼び寄せた。しかし山の方では来たくないようである。山が来てくれない以上は、自分が行くよりほかに仕方があるまい」。彼はそう云って、すたすた山の方へ歩いて行ったそうです。 
この話を読んだ当時の私はまだ若うございました。私はいい滑稽の材料を得たつもりで、それを方々へ持って廻りました。するとそのうちに一人の先輩がありました。みんなが笑うのに、その先輩だけは「ああ結構な話だ。宗教の本義はそこにある。それで尽している」と云いました。私は解らぬながらも、その言葉に耳を傾けました。
私が小田原で兄さんに同じ話を繰返したのは、それから何年目になりますか、話は同じ話でも、もう滑稽のためではなかったのです。 
「なぜ山の方へ歩いて行かない」 
私が兄さんにこう云っても、兄さんは黙っています。私は兄さんに私の主意が徹しないのを恐れて、つけ足しました。 
「君は山を呼び寄せる男だ。呼び寄せて来ないと怒る男だ。地団太を踏んで口惜しがる男だ。そうして山を悪く批判する事だけを考える男だ。なぜ山の方へ歩いて行かない」 
******************* (引用終わり)
私は以上の話を何人もの敬虔なムスリムの友人に話して聞かせたけれど、この話の出典が何であるのか知っている人はいなかった。「旧約聖書に出てきそうな話だ」と指摘する友人もいた。 
また、これに続くくだりで、H氏は「私がどうかして兄さんを信仰の道に引き入れようと力めているように見えるかも知れませんが、実を云うと、私は耶蘇にもモハメッドにも縁のない、平凡なただの人間に過ぎないのです。宗教というものをそれほど必要とも思わないで、漫然と育った自然の野人なのです」と告白している。 
日本人の多くが宗教に関心の無いことを不思議がっているムスリムの友人には、この話も聞かせてから、「そもそも私たちは、“山を呼び寄せよう”なんて大それたことは考えないから、山へ向かって歩いて行く必要もありません」などと言って煙に巻いたりした。 
しかし、宗教を信じていないというトルコ人に、こういう“漫然と育った自然の野人”は余りいないのではないだろうか?
その多くは、何らかのイデオロギーを宗教の代わりにしているか、さもなければ“山を呼び寄せようとするけれど、山へ向かって歩いて行こうとはしない人”であるような気がする。
「山を呼び寄せる男、呼び寄せて来ないと怒る男、地団太を踏んで口惜しがる男、そうして山を悪く批判する事だけを考える男」が多いように思えてならない。 
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3年半前も、メルト氏の「“生物”と強姦」を読んで、この話を思い出した。それから暫くして、大学でイスラム学に携わっている先生と会う機会があり、また出典について訊いてみたが、「私はそういう話を聞いたことがない」という答えだった。
これで、何処かに典拠のある話かどうかも、何だか解らなくなって来たように感じられた。ひょっとして、元の話も含めて、全てが夏目漱石の創作だったのだろうか? だとすれば、なかなか凄い話であるかもしれない。
漱石は、作中で“先輩”に、「ああ結構な話だ。宗教の本義はそこにある。それで尽している」と語らせているけれど、この部分は非常に印象的である。『確かにそうだ、宗教の本義はそこにあるのだ』と思わされてしまう。
もっとも、私は典型的な“漫然と育った自然の野人”で、あまり深く悩んだこともない。また、後から一神教を信仰するようになった人たちが、何に本義を見出して、入信を決意したのか知るよしもない。
しかし、夏目漱石は、おそらく主人公の一郎のように悩み続けた人であったに違いない。
それにも拘わらず、作中に“漫然と育った自然の野人”を作り出し、その野人に己の狂気を観察させている。そして、異様な説得力で、宗教の本義まで説いてしまう。
なんて私が感嘆しても始まらないけれど、実際、あれは漱石の創作だったのだろうか? それとも、キリスト教や旧約など、何処か他に典拠があったのだろうか? ネットで検索しても、あまり納得の行くような話は出てこなかった。とても気になる。どなたか教えて下さい。 

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