メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

偽りても賢を学ばんを賢といふべし

私の偏見かもしれないが、既存の権威に対する抵抗として生まれたキリスト教と違って、イスラム教は、元々為政者の側に立っているように見える。そのためか、権威に対する反抗は悉く戒められているという。
異教徒が支配する社会で、イスラムの信仰を実践することにより、身に危険が及ぶのであれば、“タキーヤ”と言って、その信仰を隠すことも認められているそうだ。
だから、異教の権威・為政者に抵抗して殉教する必要などないらしい。しかも自殺は固く禁じられている。これでは、“自爆テロ”など沙汰の限りとしか考えられないだろう。
しかし、イスラムの社会が異教徒の攻撃さらされた場合は、聖戦を認めており、決して“平和主義”を謳っているわけじゃない。なんだか、イスラムという宗教は、人間のやりそうなことを、大概、最初から認めているような気がする。
イマームイスラム教導師)の婚姻も認められていて、キリスト教に比べたら、それほど禁欲的ではないと言えるかもしれない。
 イスラムのテロの背景には、多くの識者が指摘しているように、ムスリムである為に西欧の社会で受けた差別等があるのではないかと思う。
「 マイノリティの最も真実的な試験」で、エティエン・マフチュプヤン氏は、トルコのマイノリティが、イスラムを見下すことによって自尊心を回復したと説明しているけれど、果たして西欧のマイノリティであるムスリムたちは、キリスト教を見下すことによって、自尊心を回復することが可能だっただろうか?
経済、科学、芸術のあらゆる分野で差をつけられているため、嫉妬やコンプレックスは感じたとしても、見下すのは難しかったに違いない。
“タキーヤ”によって自らを偽ろうにも、心に受けた傷は覆い隠せないほど大きかったかもしれない。でも、何とか自分を偽る方法を見つけるべきだった。
13世紀のイスラム神秘主義者メヴラーナは、「あるがままに自分を見せよ」と言ったらしいけれど、この発想は余りイスラム的じゃないような気がする。
そもそも、自分をあるがままに見せられる人間は、この世にどのくらい存在するのだろう? 私がそれをやったら、たちまち「変態」の烙印を押されてしまうと思う。
メヴラーナから80年ほど後れて、遠く離れた日本に生まれた吉田兼好は、徒然草の 八十五段に、「人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず」と書き、以下のように結んでいる。私はこの件を読むと、良く解らないまま、なんとなく安堵する。
「・・・狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。」