メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「イスラムはどういう宗教なのか?」

《2019年11月1日の記事を再録》

日本でイスラムの社会について解説された記事を読んでみると、イスラムの教義から説き起こしている例が少なくない。

 しかし、トルコでは、敬虔な信者であっても、教義を事細かに知っている人はそれほどいないだろう。

 その多くは、礼拝のやり方や飲食などの禁忌について大まかな知識を有しているだけで、トルコ語の宗教書を熱心に読む人も少ないと思う。知識と言っても、それは冠婚葬祭等にも関わる伝統として受け継がれて来たものが大部分であるはずだ。

 そもそも、アラビア語母語とする人たちを除けば、殆どのトルコ人アラビア語で記されたコーランが読めるわけではない。

 それに、母語アラビア語でもアラビア文字を読めない人が多いから、大学の神学部でも出ていない限り、コーランを読みこなせる人はいないと言っても良さそうな気がする。

その神学部も、現在は女学生が大半を占めているという。産業化の時代に神学部など卒業しても就職に困るためらしい。

イスラムの教義をいくら研究しても、産業化されたトルコの社会を知る糸口はあまり得られないだろう。

 また、信者ではない一般の日本の読者を対象にした記事であっても、イスラム教の成立が「神の啓示云々」で済まされていて、背景について分かり易い説明を読んだ覚えがない。

 私のように何の信心もない人間にしてみれば、宗教は誰かによって作り上げられた体系に過ぎない。どういう人たちがどういう目的で作ったのか解き明かしてもらいたいのだ。

 そして、これを考えると、私の僅かな知識でも、イスラム教とキリスト教はその出発点が違っていたように感じられる。

キリスト教が既存の体制への抵抗として生まれたのに対し、イスラムは社会の統治者だったムハンマド、あるいはその周辺にいた人たちが作り上げた体系ではなかっただろうか?

 これにイスラム教を貶める意図はない。信仰のない俗人にとって、統治者として成功を収めたムハンマドの教えは参考に値するし、立身出世を遂げたムハンマドは数ある「聖人」の中で珍しい常識人だったような気がする。

 ブッダは世捨て人、イエスはちょっと過激な運動家に例えられるかもしれない。いずれにしても、あまりお近づきになりたくない類の人物であると思う。友人として付き合うなら、やはりムハンマドだろう。

 ムハンマドはその教えも、当時のアラビアの社会の実情に合わせて説いていたらしい。だから、イスラムの教えを現代に活かそうとするなら、現代の社会の実情に合わせなければならないと主張するイスラム学者がトルコにはいる。

 というより、以下の宗務庁長官の話を聞けば、これが主流ではないだろうか?

時代に合わせて政教分離を図ったトルコのイスラムが、かえって本質に近いかもしれない。なにしろ、オスマン帝国の皇帝はカリフを兼ねていたわけで、イスラムの盟主と言って良い存在だったのである。

このイスラムが過激で危険な宗教であるかのように喧伝されているのだから堪らない。

イスラム教は、神と人の間に社会が介在しているような気がして、キリスト教プロテスタントに比べたら、何だか俗っぽい宗教のように感じてしまう。

 実際、プロテスタントの信徒である日本人の友人は、イスラムを「お気楽な宗教」と評していた。

 日本語を少し解するトルコ人の友人によれば、イスラムは「頑張らない宗教」だそうである。実に巧い表現じゃないかと思う。

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