メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

人を憤激に駆り立てるもの

トルコのイスラム的な保守層の多くは、彼らの“敬虔な信仰”が、政教分離主義のエリートたちから、時代遅れの愚かな行為と見下されたことに、最も激しい憤りを感じていたのではないかと思う。
パルヴェーズ・フッドボーイ氏は、「どんな宗教も、その宗教の優越性とその宗教を他者に押しつける神聖な権利についての絶対的な信念を扱うのである」と述べていたけれど、トルコでは政教分離主義のエリートらが、イスラムのそういった優越性を否定しようとしていた。
これに対して、イスラム的な保守層の人々が憤慨したのは無理もないだろう。彼らは経済的な理由だけでAKPに投票してきたわけではなかった。

そして、AKP政権によって、徐々にイスラムが社会的な敬意を回復させると、人々は安堵して寛容の精神を取り戻したのか、ラディカルなイスラム主義の主張もかつての勢いを失ったようである。政教分離の体制に反対する声も殆ど聞かれなくなった。
最近は、以前の優越性が失われつつある政教分離主義のエリートの中から、却ってラディカルな主張や憤激の声が多く聞かれるようになったかもしれない。

歎異抄の第十二条にも、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりといふほどに、報敵も出できたり、謗法もおこる」とあるけれど、やはり優越・劣等の葛藤は、昔から争い事の最も大きな要因になってきたのではないだろうか。
人間という動物は、ある程度の優越感が得られなければ生存できなくなるらしい。自宗派の優越性を否定した歎異抄も、結局は明治になるまで、ほぼ禁書の扱いだったそうだ。
ISなどによるイスラム原理主義のテロ、逆にイスラムが標的にされたノルウェーキリスト教原理主義のテロ、オウム真理教のテロ、民族的な優越性の問題も絡んでいるPKKのマルクス主義的なテロ、こういった全てのテロに、優越・劣等の葛藤が共通しているような気がする。 

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