メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

無信仰者の意見に対するムスリムの反応

《2016年7月28日の記事を修正短縮して再録》

私はイスラム教徒じゃないし、キリスト教徒でもない。家の宗派は一応浄土真宗だけれど、「南無阿弥陀仏を唱えれば成仏できる」なんて話も、もちろん信じていない。

神道にも、伝統的な習俗として、あるいは観光的な面で多少興味を感じる程度だ。自分では全くの無信仰だと思っている。まあ、強いて言うなら、俗にいう「日本教」の信者ではあるかもしれない。

こういう人間にしてみれば、コーランやバイブルといった聖典も、当然、誰かが著した書物に過ぎない。

トルコでは、ラディカルな政教分離主義者を相手に、こんな話をしても、反発されるどころか、もろ手を挙げて賛同されたりする。

相手が“敬虔なムスリム”の場合、最初からこの手の話題を避けているが、教養のある“敬虔なムスリム”の中には、「コーランの作者はムハンマド」を前提に、「イスラム儒教に似ているような気がする。いずれも何だか“老人の説教”を思わせる」なんて論じても、「信仰の無い人間の意見」として聞いてくれる人もいた。

アンカラ大学の神学部を卒業して、長年、宗教科の先生を務めていた友人などは、まずどんな議論を吹っかけても大丈夫である。彼が興奮するのは、宗教よりも民族問題でトルコが批判された時じゃないかと思った。

そのレベルにもよるが、神学部では、イスラムに限らず、他宗教の研究も行っているので、神学部卒の宗教の先生は、かえって非常にオープンだったりする。

ところが、昨年だったか、AKPとエルドアンを嫌う政教分離主義者に、以上のような「信仰の無い人間の意見」を論じ始めたら、「何を言うのか? コーランは神の言葉である」と怒られてしまったので大いに焦った。

つまり、その人の宗教に対する考え方を推し量るうえで、「エルドアンを嫌う政教分離主義者」とか、「エルドアンを支持する“敬虔なムスリム”」などという区分けは、余りあてにもならないようである。