メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコのイスラム(政教分離とイスラム)

AKP政権とフェトフッラー・ギュレン教団の争いを“イスラム主義者同士の内輪もめ”みたいに見る向きもあるけれど、今日(11日)のラディカル紙のコラムでオラル・チャルシュラル氏は、左派やリベラル派もこの争いによって二分されたと指摘している。
敵の敵は味方とばかり、教団の側に付く人たちもいれば、あくまでも“国家の中に別の国家が巣食っている”のは問題であるとして、反教団の主張を唱える人たちもいる。
これを機に、イスラム政教分離という構図は、あまり意味を成さなくなるのではないか。AKPは従前より“保守的な民主主義”を標榜しているが、いよいよこのラインに落ち着いてくるかもしれない。メフメット・バルラス氏のように、「教団に脅威を感じたAKPが一層“政教分離”の理解を深める」と期待する識者もいる。
AKPを支持しているイスラム的な保守層の人たちを見ても、もう随分前から「政教分離は不要だ」と言う人は余りいなかったと思う。かなり敬虔なムスリムの中からでさえ、イスラム暦や“トルコ語アラビア文字表記”の復活、あるいは“利子の禁止”を主張する声は殆ど聞かれなかった。
アルコールの全面禁止を唱える“敬虔なムスリム”も、無理だと思っているからかもしれないが、それほど多くない。一般の保守層には殆どいないと言っても良いだろう。それどころか、“敬虔なムスリム”を自称しながら、本人が飲んでいる場合もある。
多くのムスリム(トルコの)にとって重要なのは、自分なりの信仰であるとか、社会の中でイスラムが活かされているという実感ではないかと思う。
出来る限り礼拝し、出来る限り断食するけれど、全て“出来る限り”である。それよりも、正直・寛容・助け合いといったイスラム的な美徳に重きを置く人も多い。そもそも、これらはイスラムに限らない普遍的な美徳だろう。

この数年、私は良く解りもしない難しい論説を読みながら、妙なイスラム特殊論に振り回されていた。イスラムの教義が、他の宗教に比べて如何に特殊であるかなんて、ややこしいことを考える前に、私の周囲にいるムスリムが“特殊な人たち”であるかどうかを考えて見るべきだった。
皆、何ら変わるところない“人間”である。クズルック村の工場にいた頃、敬虔なムスリムマサルさんに、「何のためにイスラムをやるのですか?」と訊いたら、彼は「“インサン(人間)”になる為です」と答えていた。この場合の“インサン”は「真っ当な人間」といった意味に違いない。
さらに、マサルさんは「だから、信仰の有る無しなど大した問題ではありません」と言い添えてくれた。こんな立派な友人に恵まれていたのに、この“通信”にもイスラムを危険視するような話を大分書いてしまった。今、とても申しわけなく思う。
トルコで、教養のある“敬虔なムスリム”と話して、不愉快になった覚えなど殆どない。
「貴方は神を信じていないのだね。もちろん、それで貴方が私たちに譲歩したりする必要は何処にもない。その代わり、私たちも“イスラムは神から啓示された宗教である”という点では一歩も引けない。これを了解し合って話そう」と穏やかに話してくれた人もいる。
彼に、“イスラムを棄て、キリスト教に改宗したトルコ人の友人”について訊いて見たところ、穏やかな表情を崩すこともなく、「まあ、そういう人がムスリムであり続けても、イスラムの世界に何ら貢献することはないし、彼自身も不幸だろう。改宗するなり、無神論者になるなりした方が良いと思う」と見解を明らかにしていた。
この会話があったのは、何処かの大学の神学部とかではなくて、うちの近所のジャー・ケバブ屋さんの軒先である。この人は、ケバブ屋のお父さんの義兄だった。

トルコでも、インターネット上の“宗教の質問コーナー”みたいなサイトを開けると、生活の細々した部分まで、いちいち教義上許されるかどうかを気にしている人たちがいて確かに驚かされる。
しかし、日本のネット上で、妙な“占いサイト”の賑わいを見たら、他所のことは言えないだろう。何処の社会にも、ああいうのを拠り所にしないと気が済まない人たちが一定の割合で存在しているのではないかと思う。
トルコ人アッラーなんて信じて頭がおかしいんじゃないのか?」と文句ばかり言ってた人が、神棚を前にして真剣な面持ちで拍手打っているのを見てのけぞったこともある。
英語が話せて海外へビジネスに行くようなトルコ人であれば、かなり敬虔なムスリムであっても、行く先々で『この食材はハラールか?(教義上許されているか?)』といったことまでは、いちいち気にしていないようだ。
気にしているのは豚肉やアルコールの有無ぐらいだろう。それも煮沸されてアルコールが飛んでいる場合は問題にしない“敬虔なムスリム”もいる。自分が食べさえしなければ、隣のテーブルに豚肉料理が並んでいても平気だったりする。
もちろん、ここに例を挙げたのは、全てトルコでの話であり、私は他のイスラム国の状況を知らない。伝え聞くところによると、なかなか剣呑なムスリムも少なくないらしい。しかし、それはイスラムに起因していると言うより、その国の発展段階や住民の文化水準が大きく関わっているのではないかと思う。

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