メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコの新年

晦日の夜は、新年のカウントダウンなどがあったりして、ニシャンタシュやタクシム広場の辺りは、例年のように盛り上がったそうだ。
他のイスラム諸国で、こういった新年行事は行なわれているのだろうか? おそらく多くの国が、公式にはグレゴリオ暦さえ採用していないと思う。
トルコでは、共和国革命により、グレゴリオ暦が公式の暦に定められ、元日は公休日となっている。週の休日も金曜日ではなく日曜日である。
この暦法の改正とラテン文字の導入は、共和国革命の最も大きな成果に数えられるだろう。イスラム的な保守層は、スカーフ着用の禁止などに激しく抵抗していたけれど、こういった改革は受け入れていたようだ。新年の行事も既にトルコの伝統の一つとして定着しているかもしれない。
我が街の信仰に篤いジャー・ケバブ屋さんは、「私らムスリムにとって、新年は祝祭というわけじゃない。でも、1年の区切りとして、アッラー(神)の前で、昨年の行いを反省し、新しい年に何をやるべきか考えることにしているよ」と語っていた。
もちろん、彼らは、カウントダウンのような新年の行事に加わったりはしないが、乱痴気騒ぎでも起こらない限り、特に嫌な顔もしていない。「ああやって喜んでいる連中もいるんだなあ・・・」ぐらいである。
ところで、こういった政教分離に基づく改革は、全て共和国になってから一斉に始まったわけでもないらしい。オスマン帝国時代の19世紀初頭以来、少しずつ西洋化の動きは始まっていたという。
一昨年の11月頃、オスマン帝国時代のルム(トルコに住むギリシャ人)の報道活動に関するシンポジウムを見学したところ、パネリストのニコ・ウズンオウル氏は、「我々ルムは、帝国のミドハト憲法のもとで、何の問題もなく暮らして行くことができた」と語っていた。 しかし、ミドハト憲法に、いくら政教分離的な要素があったとしても、トルコがイスラム法を完全に廃して、政教分離を達成したのは、共和国革命を迎えてからのはずである。ニコ氏の発言には、『我々が不満を懐いているのは、オスマン帝国でもイスラムでもない、共和国の排外主義だよ』という嫌味が込められていたように感じた。ニコ氏はその前年に、アテネエルドアン首相と会っていたそうである。(イスタンブールのルムは戻って来るのか?)
ルムの故マリアさんも、何かに付けて「私たちルムは、オスマン帝国のテバ(臣民?)だったのだ」と不満を漏らしていた。
多民族・多宗教のオスマン帝国から、住民交換等の政策により、キリスト教徒らを国外に退去させたため、トルコ共和国はかなり純度の高いイスラム教徒の国になってしまった。オスマン帝国のミドハト憲法には、宗教間の差別を無くすという意味合いの政教分離的な側面も見られたようだけれど、98%がムスリムの共和国では、そもそも宗教間の差別は、あまり問題にならなかったかもしれない。
共和国は、分割寸前のオスマン帝国から、ムスリムが自分たちに残された国土を守り抜いて樹立した国家だ。政教分離も自分たちの近代化の為であり、暦法の改正は、国際社会の一員となる意思表示だったように思える。
ところが、一度は亡国の瀬戸際に立たされた所為か、過剰防衛に陥ってしまい、80年代までは、何だか国際社会の隅にじっと佇んでいた印象がある。
それが、近年の経済発展で自信を回復し、再び国際社会の檜舞台に躍り出ようとしている。オスマン帝国時代は、何の問題もなく一緒に暮らしてきたクルド人との和平も、あと一歩のところまで近づいた。そればかりか、北イラククルド人たちもトルコに熱い眼差しを向けていることが解ってきた。ルムの人たちもトルコへ戻って来ようとしている。なんとなく、オスマン帝国時代の絆は未だ残っているような気もする。これには、トルコの人たちも驚いているだろう。
「長い間、“小さい国だ”と思い込まされてきたが、実のところ、トルコは偉大な帝国の後継者なのだ」という知人の言葉にも、この“驚き”が表れているのではないかと思う。
欧米の人たちも同様に驚いているかもしれない。しかし、こちらは嬉しい驚きじゃなさそうだ。彼らに安心してもらえるような工夫も必要ではないだろうか。