メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコの政教分離と世俗化

クズルック村の工場には、非常に敬虔なムスリムトルコ人のエンジニアもいれば、全く信仰のないトルコ人エンジニアもいた。しかし、日本人の出向者も含めて、皆が熱意を持って取り組んでいたのは、生産効率と品質の向上であり、そこには宗教や国籍の違いが介在する余地など殆どないように思えた。
おそらく、トルコの何処の生産現場でも状況はそれほど変わらないのではないか。市場の競争原理に基づいて産業化が進んだ社会では、特定の宗教やイデオロギーの支配力が後退して、世俗化が進むという説は概ね正しいような気がする。
もちろんこれには、雇用機会の均等が条件になるかもしれないが、それを守らない企業は競争力を失うだけだろう。
クズルック村の工場でチーフ・エンジニアだったマサルさんは、非常に敬虔なムスリムで礼拝等の務めも欠かさずにこなしていた。部下の青年によれば、当時(2000年頃)は、そういったムスリムがトルコの一般的な財閥企業に入社しても、あまり出世する見込みはなかったそうである。「だから、ああいう人たちは外資系の企業を選ぶ」と青年は私に囁いた。
実際、マサルさんに訊いたところ、彼はクズルック村に来るまで、米国資本の企業で働いていたという。
80年代、オザル政権によって外国資本の導入が図られるまで、政教分離主義者と敬虔なムスリムの間には、機会均等とは言い難い状況があったと見て良いかもしれない。スカーフを被った女性の社会進出も拒まれていた。
エルドアン大統領は、この状況について、「我々敬虔なムスリムは、アメリカの黒人のようだった」と語って物議を醸していたけれど、多くの敬虔なムスリムが不満を燻ぶらせていたのは事実だろう。
しかも、それほど敬虔とは言えないまでも、この不均等を快く思っていなかったムスリムまで含めれば、それはアメリカの黒人のような少数派ではなく、明らかな多数派だった。
競争の原理から見ても、あまり好ましい状態とは言えなかったはずだ。AKP支持派の知識人であるジャン・パケル氏は、これを次のように説明している。
「・・・共和国発足当時、トルコ人の殆どは農民だったため、共和国の創業者らは、仕事が出来る西欧志向型の階層を作り出す必要があった。そして、創造された“白いトルコ人”(政教分離主義者)を85年近くに亘って守ってきた。関税により、また彼らが製造した粗悪品を国家が買い上げ、競合相手を妨害することにより守ってきた。・・・」
政教分離主義による革命という意気込みがあったにせよ、かなり無理な変化を社会に押し付けようとしていたのは確かじゃないかと思う。反動保守勢力を軍部が弾圧するなど、民主主義も棚上げしようとしていた。
エルドアン大統領とAKPは、この無理な革命をゆるやかに終わらせようとしている。これに政教分離主義の革命勢力が猛反発しているのは、当然かもしれないが、公の場における女性のスカーフまで禁止することに、どういう革命的な意義があったのだろう?
女性のスカーフは漸次解禁され、昨日承認された新内閣には、ついにスカーフを被った女性の大臣も登場した。だからといって、恐れられたように、「世間の圧力でスカーフが強要される」といった事態には至らなかった。
イエニドアンの我が家の近所で、スカーフを被っていなかった娘が、突然きっちりスカーフを被って敬虔な服装になり、『あっ!』と思ったけれど、3か月でスカーフを外すと、今度は以前よりもっと派手な髪形と服装になって驚いた。今思えば、スカーフと敬虔な服装も色合いは随分派手だった。スカーフも既に一種のファッションという扱いなのだろう。

スカーフの解禁により、女性の社会進出は一層進んだ。スカーフを被った女性の路チューぐらいでは私も驚かなくなった。そのうちスカーフは敬虔のシンボルとは言えなくなるかもしれない。
いずれにせよ、トルコで政教分離の根幹が揺らぐことは有り得ないと思う。
AKPの母体となったイスラム主義運動“ミッリ・ギョルシュ(国民の思想)”の出身であり、新内閣でも副首相に留任したヌーマン・クルトゥルムシュ氏の祖父は、オスマン帝国の軍人でアタテュルクの同僚だったそうである。この人物は、オスマン帝国時代に、初めてラテン文字によるイスラムの教科書を著したという。
トルコの政教分離民主化の流れは、オスマン帝国時代のタンズィマートの改革で既に始まっている。そのため、一部のAKP支持者は、「我々も従前から政教分離だった」というけれど、オスマン帝国がそのまま続いていたら、その政教分離は大分違うものになっていたはずだ。
人口に異教徒の占める割合が高かったため、その意味では別の魅力のある政教分離になっていたかもしれないが、現在の政教分離は、あくまでもアタテュルクによる共和国革命の賜物である。その業績は、これからも称えられ続けるだろう。歴史は過ぎ去ってしまったのだから、今更、どちらの政教分離が良かったかと優劣を競っても意味はない。
おそらく、こんなところが多くの人々の共通理解になっているような気がする。トルコで、歴史をほじくり返したリ、歴史に逆行したりする人たちが主流派になるような事態は、まず想像できないのである。
欧米でも、こういったトルコにおける政教分離と世俗化の歩みが理解され、ムスリムによる政教分離の可能性がもっと語られるようになれば、イスラムに対する見方も変わってくるに違いない。
いくらなんでも、欧米の大きな流れは、既にイスラムとの共存を模索する方向へ進んでいるだろう。イスラムの教義を論ってみたり、抑圧を続けたりしても、何ら成果が得られないのは明らかである。そして、イスラム教徒が水蒸気のように消えていなくならないのであれば、相手の価値を認めて共存するより他にない。
また、サウジアラビアのような原理主義は、欧米にとって却って扱い易かったのかもしれないが、今や最大の脅威となっているようだ。
これに対して、政教分離による民主主義の中で、イスラムの教えを生かそうとしているトルコ共和国が果たせる役割は、極めて重要で大きいと思う。

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