メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

オスマン帝国の近代化・西欧化

ビージーズのプロデューサーだったアリフ・マーディン氏は、預言者ムハンマドの後裔であるかもしれないという、このムラット・バルダクチュ氏の記事を読んで驚いたけれど、オスマン帝国末期の上流層は、一部のイスラム学者等も含めて、非常にモダンな人たちだったらしい。

2008年10月、ラディカル紙に連載されたヌライ・メルト氏の記事を読んでも、そういったオスマン帝国末期の状況を窺い知ることができる。
メルト氏によれば、トルコの近代化・西欧化は決して共和国革命と共に始まったわけではない。一連の記事でメルト氏は、先ずオスマン帝国の宮廷を始めとする支配層が西欧の文化を吸収し、それが次第に中流層まで広がって一つの政治的なイデオロギーを形成するに至った過程を明らかにしながら、興味深いエピソードを幾つか紹介している。 
例えば、現在、保守的な人々に敬愛されている女流作家ミュネッヴェル・アヤシュル(1906-1999)は、オスマン帝国の支配層出身であり、アタテュルクの思い出を次のように記していたと言う。 
「アタテュルクの車が門の前に停まり、テニスコートに入って来たが、私たちに対して腹を立てることもなく、“我々もテニスをしよう”と言った。しかし、ラケットもなかったので、私たちのラケットを貸してあげると、早速に始めたが、アタテュルクとイスメット・イノニュは全くルールを無視してプレイしていた。アタテュルクはボールを高く打ち上げればそれで良いと思っていたようである」。 
また、当時の新首都アンカラについても、ミュネッヴェル・アヤシュルは、無作法でつまらない都市であると言い、その住人たちは都市生活も知らなければ、家の中を整えてデコレーションすることも知らないと述べていたそうだ。 
その為、オスマン帝国の支配層は、共和国が西欧化を進めたことに決して反対はしておらず、共和国の指導層を中流と看做して見下していただけらしい・・・。
そして、この共和国の指導層が築いた西欧的・世俗的な文化のヘゲモニーから見下されて来たのが、現在の保守的・イスラム的な新興勢力であり、彼らは見下された恨みで、「公平な政治を行なうというより、その位置を奪い取ろうとしている」とメルト氏は論じながら、次のように指摘していた。
「まず保守層、そしてイスラム主義の層は、西欧的・世俗的な文化のヘゲモニーに対して、オスマン帝国の遺産を受け継ごうと努めてきた。しかし、オスマン帝国の文化と階級構造が現存していれば、それは、今の後継者たちに、せいぜい軽蔑の眼差しを向けようとするエリート的なものでしかない」。

しかし、どうなんだろうか? ウイキペディアのトルコ版で調べて見ると、“ミッリ・ギョルシュ(国民の思想)”を立ち上げ、イスラム主義運動の中核を担っていたネジメッティン・エルバカン氏の父メフメット・サブリ氏は、オスマン帝国時代にシノップで副裁判長を務めていたそうである。
また、現在、AKP政権の副首相であり、やはり“ミッリ・ギョルシュ(国民の思想)”から来たヌーマン・クルトゥルムシュ氏の祖父は、オスマン帝国の軍人(大佐)で、オスマン帝国時代に、初めてラテン文字によるイスラムの教科書を著した人物であるらしい。
この両人の場合、少なくともトラブゾン県の中流家庭の娘だというメルト氏より、遥かに良い家柄ではないだろうか。他にも、“ミッリ・ギョルシュ(国民の思想)”を立ち上げた人たちには、オスマン帝国以来の良家の出身が多いと言われている。
特に、クルトゥルムシュ氏の祖父が、ラテン文字の導入を試みていたという記述は興味深いと思った。ひょっとすると、“ミッリ・ギョルシュ(国民の思想)”も、オスマン帝国時代に始まった近代化・西欧化の大きな流れの中の一つに過ぎないのではないか、なんて考えて見たら面白いかもしれない。