メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

欧米は中東の民主化を望んでいたのだろうか?

トルコのメディアでは、アメリカがギュレン教団を背後で操っていたという“陰謀論”が相変わらず飛び交っている。エルドアン大統領まで、それを遠回しに仄めかして煽るものだから、ちょっとやそっとじゃ収まりそうもない。
もちろん、こういったアメリカと敵対するような言論には眉をひそめている識者も多い。例えば、ヒュリエト紙のアキフ・ベキ氏は、「ギュレンを引き渡すのか、トルコと縁を切るのか」(エルドアン大統領)なんて迫ったのでは、外交が成り立たなくなってしまうと厳しく批判していた。
仮に、アメリカで、ある種の政治団体・機関の中に、ギュレン教団の策謀に加担するような“火遊び”を犯した連中がいたとしても、それを突っついて火が付いたら、火傷するのはトルコのほうで、アメリカは「あちっ!」ぐらいで済んでしまいそうな気がして恐ろしい。
しかし、この150年の歴史を振り返って見れば、オスマン帝国ムスリム社会に対して欧米が様々な工作を企てて来たのは、明らかじゃないかと思う。トルコの人たちが疑心暗鬼になるのは無理もない。
アメリカは、イスラム主義の政党と思われていたAKPとギュレン教団が協力関係にあった2011年ぐらいまで、AKP政権のトルコを高く評価していたようである。
果たして、当時と現在で何が変わったのだろう? エルドアン氏は相変わらずのワンマンぶりで失言も多い。民主化云々に関しては、あまり進んでいないが、特に後退もしていない。イスラム主義は後退した。AKPはもうイスラム主義の政党とは言い難くなった。
2013~14年の間は、クルド和平プロセスに伴って民主化も一定の進展を見せていたけれど、ゲズィ公園騒動などもあって、トルコへの評価は急落している。クルド和平プロセスは、結局、欧米から何の評価も得られないまま頓挫してしまった。
変わったと言えば、最も大きく揺れ動いたのは、教団との関係だったに違いない。そのため、なんとなく政権と教団との対立が深まるにつれて、トルコとアメリカの関係も悪化して行ったような印象を懐いてしまう。
いずれにせよ、アメリカは、トルコを含めて、中東の国々の民主化など大して望んでいなかったらしい。エジプトではクーデターの成功に喜び、トルコではクーデターの失敗に悲しんでいるかのようだった。
イスラム教の国の民主化には、まず政教分離が条件になると思うが、イスラム教の諸国へ政教分離をもたらすために、影響力を発揮できそうな国はまずトルコ以外に考えられない。
かつて、抑圧的な政教分離主義に陥っていたトルコが、中東のムスリム社会に政教分離を訴えても、反発を買うだけで効果はなかったような気がするけれど、今は違う。
エルドアン大統領とAKP政権は、中東における政教分離のための大きなチャンスじゃないだろうか? チャヴシュオウル外相は、シリアの新体制に政教分離を望むと明言しているのである。

命を懸けて、ボロ船で地中海の波濤を越え、ヨーロッパに新天地を求めようとしたムスリムたちは、イスラム大義などより「西欧並みの豊かで文明的な生活」に憧れていたのではないか。イスラム大義を優先したければ、トルコに留まっても良かったはずだ。そもそもボロ船で地中海を渡ろうとしたのはシリアの難民に限られていなかった。
だから、中東のムスリム社会に、政教分離は決して無理難題じゃないと思うけれど、欧米は最初から政教分離民主化も望んでいなかったのかもしれない。

18世紀、西欧に倣った近代化を模索していたオスマン帝国の辺境(アラビア半島)で、帝国に反抗したワッハーブ派という退嬰的なイスラム原理主義者たちを支援したのは、他ならぬ英国だったという。現在でも、ワッハーブ派を奉じる原理主義的なサウジアラビアの最大の支援者はアメリカである。
ムスリムの社会が発展を遂げるためには、政教分離民主化が欠かせないと論じたところで、欧米がムスリム社会の発展を阻害しようとしているのであれば、無駄な議論になってしまう。
ひょっとすると、欧米の中には、全てのムスリム社会がサウジアラビアのようになってしまえば良いと願っている向きさえあるかもしれない。発展して自分たちを脅かす存在にはならないし、イスラム大義を重んじるなら、移民として欧米に押し寄せることもない。まさしく願ったりかなったりだろう。
それにしても、西欧のムスリム移民に対する態度は悲しい。シリア難民を積極的に受け入れるような姿勢を見せていたドイツも、そのうちトルコ移民さえ追い出しかねない雰囲気だそうである。
ドイツという国に驚かされるのは、戦前、ユダヤ人やロマ民族といった異分子をまとめて排除しようと恐ろしい罪を犯して罰せられたのに、戦後の未だ50年代に、早々とトルコ人という異分子を招き入れたところだ。過去の反省に基づいた不安といったものはなかったのだろうか?
(50年代に移民が始まった時点では、トルコ人が押しかけて行ったわけじゃなくて、ドイツ側が労働力として招聘していた。)
日本は、大東亜共栄圏の失敗に懲り懲りした所為か、戦後はやたらと内向きになってしまい、外国人労働者の受け入れにも消極的だった。ある意味、遥かに深く反省していたのではないかと思う。