メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

韓人教会のピクニック

この3年来、私にとって既に恒例の行事となった“イスタンブール韓人教会のピクニック”に出かけてきた。
昨日は、日中、30度近くまで上がっていただろう。もう初夏の陽気で、夏好きの私には嬉しいピクニック日和。例年のように、焼肉やキムチまで御馳走になり、まったく感嘆に堪えない。
ピクニックと申し上げたけれど、この行事は“韓人教会の野外礼拝”として執り行われるもので、食事が始まる前に、牧師さんのお話と礼拝がある。
「・・感嘆は、人の健康に良い影響を与える。・・・信仰のある者は、日々、特に良いことが無くても、神を賛美し、これに感嘆できる。・・・」と牧師さんはお話になっていたが、この牧師さんの説教は、実に巧みで、思わず聞惚れてしまう話ばかりだ。
お陰で、信者でもないのに、最近は時間があれば、韓国語の勉強も兼ねて、毎日曜のミサにも出席するようになった。僅かばかりだが、お布施も出している。笑いどころまで用意された、ユーモアたっぷりの説教に、あの僅かなお布施では申し訳ないが・・・
先週のミサでは、“母の日”にちなんで、“孟母三遷の教え”から説き始めていた。キリスト教のミサなのに、儒教の話も出て来る。西洋人の牧師には考えられない説教だろう。
こんなお話もする。「・・私は、職業が牧師なものだから、父は何かにつけて、家でも私に祈祷や礼拝を望んだりしました。これは父の子を思う気持ちなんですが、私は『仕事が終わって家に帰って来たのに・・』と疎ましく思ったりしたんですね。これは反省しなければなりません。もちろん、私も教会の仕事が終わったら、後は遊んでばかりいたわけじゃないのですが・・・」。
天地創造といった、信仰が無ければ興味を懐けないような話は殆ど出てこない。社会全般に通用する話が多い。男と女の心理の違いに関わるエピソードも出てくる。『この牧師さん、若い頃は女性を口説くのも巧かったんじゃないのか?』なんて思ってしまった。そもそも牧師とは、他人を口説くのが仕事なのかもしれないけれど・・・。
しかし、牧師さんは、“信仰による感嘆”を説いていたものの、その説教はとても興味深く、信仰がなくても感嘆できる。聖書の中にも、信仰の如何に関わらず、感嘆できる話はいくつもある。
3ヵ月ぐらい前に会った書籍編集者のトルコ人は、「キリスト教には、感嘆を呼び起こし、人を興奮させる力があるようだ。これが彼らの発展に寄与したかもしれない」と話していた。この人自身は、殆ど信仰のないムスリムだと思うが、「イスラムにそういう力は無いだろう。その代わり、人を無闇に興奮させる危険性もない。イスラム過激派は、宗教ではなく、何か他のことに興奮しているのではないか・・・」と言うのである。
メフメット・アリ・ギョカチト氏は、著書「イマーム・ハティップレル」の中で、「イスラム主義は、アラブ圏で植民地支配への抵抗として生まれ、それがトルコへ伝播したが、元来トルコのイスラムに、抵抗の要素は全くなかった」というように分析していたけれど、イスラム過激派の興奮も、そういった“抵抗”が要因なのかもしれない。
イスラムは、もともと体制側の宗教だから、体制への“抵抗”として生まれたキリスト教と違って、人々を熱く興奮させる要素など余り必要なかったのではないだろうか。

 

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