メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

恐ろしい宗教

イスラム教徒・ムスリムと言えば、何だか、まるで価値体系の異なる宗教的な世界で生きている人々みたいな雰囲気で語られたりしているけれど、トルコでイスラム教徒の人たちと接している限り、これが実際の様相を伝えているとは、とても考えられない。
もちろん、時代錯誤とも思える頑なな信仰心で生活の隅々を律している人もいるが、そういう人は、日本にも、何処の国の社会にも、必ず一定の割合で存在しているだろう。
また、それほど頑なではなくても、日本や韓国のプロテスタントの友人たちを見ていると、彼らと神との間には個人的な強い絆が感じられてしまう。
イスラムの場合、個人と神の間に社会が介在しているような気がして、もともとプロテスタントの強い信仰とは、少し趣の異なる宗教なのかもしれない。人々は、その時々の社会の要件に合わせようとするため、プロテスタントよりも、却って非常に世俗的な宗教じゃないかと思ったりする。
プロテスタントカール・ルイス選手は、自分に才能を授けたのは神であると信じて、引退するまで、自己管理と鍛錬を怠らなかったそうだ。アメリカの超一流アスリートには、こんな人が少なくないらしい。
モハメド・アリは、凄い試合をする時と、そうでもない時の差があり過ぎて、体調管理に疑問が持たれていたけれど、彼はプロテスタントじゃなかった。
トルコのアスリートたちも、アメリカに比べて、全般的に選手寿命が短く、やはり自己管理はそれほどでもないように思えてしまう。
トルコにも選手寿命の長いアスリートがいないわけではない。例えば、サッカーのハーカン・シュクル選手は、長期間にわたって第一線で活躍し、その真摯な姿勢には、強い信仰心が感じられた。しかし、ギュレン教団のメンバーである彼の信仰は、一般のイスラム教徒と同じではなかったかもしれない。
今日(10月14日)のカラル紙のコラムで、エティエン・マフチュプヤン氏は、ギュレン教団について、「この国で、最も長期間にわたって計画的且つ合理的に考え、自分たちの目的に向かって、強い意識で邁進できる組織だった」と記しながら、国家も含めて、それが出来ないトルコの各組織に猛省を促していた。
ギュレン教団には、プロテスタント的な要素もあったのだろうか?
それはさておき、プロテスタントの信仰は、道徳的な面ばかりでなく、厳しい自己修養を求めているような気がする。これには、武士道と相通じるところがあるらしい。
儒教は、為政者に修養を求めているものの、一般の人々に対しては、「之に由らしむべし、之を知らしむべからず」だから、単なる道徳律に過ぎないのだろう。
イスラムも、これに近いのではないかと思う。安寧秩序ばかり求めていて、自己修養には厳しくなさそうだ。「持ちつ持たれつ」といった美徳が強調されるあまり、「私立」も妨げられてしまう・・・。
だから、プロテスタントの人たちが、イスラムを「だらしない宗教」と言って見下すのであれば、それは解らなくもないが、危険視するのは理解に苦しむ。「危なくて恐ろしいのは貴方たちの宗教だよ」と言いたくなる。
17世紀に、ピューリタンの人々は、未知の新大陸へ向かって、大西洋の荒波を乗り越えていった。あれは感動的であると同時に、ちょっと恐ろしい。イスラム教徒の多くは、もっと現実的な利益が見えなければ、危険を冒さないのではないか。
人類の発展に大きく貢献したプロテスタントの精神は、もちろん称賛に価するけれど、一歩引いて、イスラム的な美徳にも目を向けてくれたら有難いと思う。