メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

アッラー(神)は形而上の概念

昨日のナスレッディン・ホジャ云々、アラビアン・ナイトを生んだ社会やオマル・ハイヤームを生んだ社会の現況を考えたら、何の意味もないかもしれない。

しかし、かの国々も、西欧からその価値観まで押し付けられたと感じてしまった為に、自分たちの宗教的な価値観を大袈裟に持ち出して、抵抗を試みているだけのような気もする。

そもそも人間の営みなんて、何処へ行っても世俗そのものじゃないだろうか? 宗教の理念だけで成り立った社会が過去に実在したのか疑わしく思える。

少なくとも、トルコの“敬虔なムスリム”や宗教学の先生らの話を聞く限り、彼らが“宗教の理念による統治”などと言うものを求めているようには感じられない。「我々の宗教に基づく伝統的な価値観を蔑ろにするのは止めてもらいたい」とか「宗教による道徳の規範を大切にしよう」といったものではないのか。

来週からラマダンが始まる。確かに、イスラムは戒律が多く、ラマダンのように長期間、社会的な活動に影響を与える行もあるけれど、人々は「実践しようという気持ちが重要なのです」などと言いながら柔軟に対応している。

政教分離を“脱宗教”と捉えている一部の世俗主義者は、ラマダンという行事そのものを無くしてしまいたかったのかもしれないが、そういった脱宗教政策は性急なやり方で、人々の反感を買っただけのようだ。少しずつ人々の意識を変えて行く地道な努力をしていたらと思う。

西欧にも脱宗教的な傾向の国があれば、イタリアのように宗教に熱心な国もある。トルコも宗教の違いこそあれ、そういった二つの傾向の間で揺らいでいるに過ぎないような気もする。

2008年8月、ラディカル紙のコラムでオラル・チャルシュラル氏は次のように述べていた。

イスラム主義者のメフメット・シェヴキ・エイギは、この仮定を信じたが為に、指名手配されるとサウジアラビアに亡命した。ところが、暫くして、この国で暮らすのは可能でないと悟るや北欧の国々に移住した。本人がこれをとても正直に告白している。『アラビアでは暮らせなかった。ヨーロッパの国々では楽に暮らせる』と言うのだ。」

私も、イスタンブールアンカラのような都会での生活は、既に中東より西欧のスタンダードに近いのではないかと思ったりする。

私のような無宗教の人間が見れば、イスラムキリスト教も、要するに一神教であって、それほど大きな違いがあるようには見えない。少なくとも、トルコのイスラムは、キリスト教などと同じ一神教の一つに見えてしまう。

メフメット・アリ・ギョカチト氏の「イマーム・ハティップレル」には、宗教教育の重要性を訴えたイスラム主義者の言葉が紹介されていた。「・・・知性が尽きた所で、メタフィジカルに答えを求める人が、その答えを得られる唯一の本はコーランである」。

トルコで、教養のある敬虔なムスリムと話していると、アッラー(神)が形而上の概念であることを当たり前に認めていたりするので、却って驚いてしまう。宗教教育学の先生は、「アッラー(神)は抽象的な概念なので、これを第四学年の児童に教えるのは難しいと思った・・・」と述べていた。

この国の大多数の人たちは、アタテュルク主義を文字通り受け入れてはいなかった。同様にイスラム主義も文字通り受け入れたりはしないと思う。