メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「断絶された朝鮮の歴史」:多民族国家だった戦前の日本

《2014年2月6日付け記事を一部書き改めて再録》

1986年頃だったと思う。韓国関連の本の中で、司馬遼太郎と鮮于煇(ソヌ・フィ)の対談に、強い感銘を受けた。鮮于煇は、韓国の小説家で、司馬遼太郎とほぼ同年輩の人物である。
それが対談の中の会話だったのか、鮮于煇氏によって加筆された文だったのか、その辺りも良く覚えていないけれど、鮮于煇氏は次のように述べていた。(例によって、うろ覚えだが・・)
「今の日本の若い人たちは、戦前の日本人より、自分たちのほうが国際的であると思っているかもしれないが、とんでもない。戦前の日本人は遥かに国際的だった。・・・・・・私は、日本の若い人たちが大学で、例えば、タイ人の先生から授業を受けている未来を想像したりする。日本にはその力があると思う・・・」
多分、70年代の後半か80年代の前半に出版された本だから、“今の日本の若い人たち”というのは、私の世代~団塊世代ぐらいを指しているはずだ。
確かに、戦前の日本は“多民族国家”であったし、国際感覚にも優れていただろう。でも何だか、鮮于煇氏は、日本を買いかぶり過ぎていたかもしれない。鮮于煇氏が夢みた未来は、ちょうど今ぐらいの時代じゃないかと思うが、果たして今の日本に、それだけ多様化を図れる力があるだろうか?  
この「俺の墓に唾を吐け」に描かれた昭和18年頃の日本、東京士官学校に入学していた朴正熙について、当時、中央大学で学んでいた金鍾吉氏は、「あの頃が、朴正熙の人生で最も楽しい時期だったんじゃないのか?」と回想したそうだ。
まだ空襲もなく、東京の街は平穏だったらしい。そういう記述はないけれど、それほど差別はなかったようにも受け取れる。
私の想像に過ぎないが、韓国人等への差別は戦後になって、激しくなったのではないか。これについては、戦後に第三国人として、彼らが横暴を働いた所為だとか、いろいろ言えるかもしれない。しかし、その後、私たちの世代になっても、日本人はかつての度量を取り戻せなかった。鮮于煇氏は、これが言いたかったのだろう。

 都知事の舛添さんによれば、戦時中、九州では、選挙の際、朝鮮人有権者のために、ハングルの広告が配られていたそうだ。ところが、舛添さんが都知事選に出ていた当時、「舛添は朝鮮人!」なんてネットに書き込む連中がいたのである。
戦前は、それこそ世界中で戦争していた。言うなれば戦国時代みたいなものに違いない。その中で、日本の軍人と政治家は、見通しを誤り、分不相応な拡大戦略を続けた結果、日本を亡国の淵まで追いやってしまった。
しかし、この戦争を命懸けで終局に導いたのも、軍人だった。鈴木貫太郎首相と阿南陸相。阿南陸相終戦に同意しながら、陸軍を制御するため、腹芸を演じていたという説が何処まで正しいか解らないが、終戦を迎えると、阿南陸相は、鈴木首相と東郷外相に暇乞いを告げてから、腹を切ったらしい。
30年前、飯田橋に住んでいた頃、初詣に靖国神社へ行った。浅草に近ければ、浅草寺へ行っただろうし、神社と寺の区別さえ意識していなかったけれど、あの辺であれば、屋台がたくさん出ていて、正月気分に浸れるのは靖国神社だったからだ。
私は、神社にも寺にも、関心が相当低いほうの部類である。それでも、例えば、中学校時代、お伊勢参りに行ったのは良く覚えている。機会があれば、もう一度ぐらいは訪れたい気がする。
伊勢から奈良、京都へ掛けて旅すれば、日本の歴史そのものが感じられると思う。
しかし、韓国の人たちは、これほど優雅に、歴史を感じながら旅を楽しめるだろうか? 

韓国を旅すると、所々に日本の影が見えて来る。朝鮮の王朝の歴史は、1910年に途絶えてしまった。
また、戦後、韓国にあれほどキリスト教が普及したのは、国家神道を押し付けていた日本が撤退して、信仰のエリアに大きな空白が生じてしまったのも要因の一つであるような気がする。
このように、私たち日本の歴史も切断され、皇統が途絶えていたら、どうなっていたか? 想像しただけで、耐え難い痛みを感じる日本人は少なくないだろう。阿南陸相は、その歴史の連続性と皇統を守るために腹を切った。