メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

私の父も「非国民」だった?

私の父は大正6年の生まれであり、紛れもなく戦前の世代だった。

もちろん、戦争も体験しているけれど、兵役は、太平洋戦争が始まる前に満州で済ませ、戦時中は再度の徴兵を逃れようとして、何処かの軍需工場に潜り込んでいたという。

中学1年ぐらいの頃だったか、父が来客に「ああいう工場で放射線を浴びると、あっちが駄目になると言われたが、子供も2人できたよ」と得意げに話しているのを聞いた記憶がある。父は「あんな戦争、最初から負けると思っていた」なんて先見の明があったかのように、よく自慢していた。

戦争の悲惨さなどを聞いた覚えはなかった。父の家は、戦前、東京の台東区で大きな料理屋を営んでいて、かなり裕福な暮らしだったという。満州での兵役も、家からの仕送りで、それほど苦労せずに済んだらしい。

父が満州での思い出を語った中で覚えているのは、非常に寒い冬が終わるとハエが大量に発生して食事にも群がって来るので、それを取り除きながら食べたという話ぐらいである。

それも、子供の頃は妙に潔癖症だった私に、「多少汚いものを食べても平気だから心配するな」と教えるためだから、まるで楽しい思い出のように語って、悲惨さは全く感じさせなかった。

父は戦前の青春時代に、北アルプスなどで山歩きを楽しんでいたそうだ。これに纏わる話は良く聞かされた。

何処そこから何処そこまで歩くのに終日誰にも会わなかったとか、北アルプスの何処かで崖から滑り落ちて九死に一生を得たとか、もちろんそれも全て良い思い出として楽しそうに話していた。

戦後、父の家は零落し、昭和35年に私が生まれた頃は、狭苦しい都営住宅の貧乏暮らしになっていた。それでも、我が家では、夏休みに家族で何処かの山へ行くのが恒例だった。

私も、毎年、この山行を楽しみにしていた。中学1年の夏休みは南アルプス甲斐駒ヶ岳、最後となった中学2年の夏休みには北アルプス槍ヶ岳に登った。その後、家族の平和は崩れ、私は中学を卒業すると、家から逃げようとして全寮制の高校へ進学した。

槍ヶ岳では頂上近くの山小屋に泊まったが、当時、山小屋は何処でも大部屋の雑魚寝で、時間になると一斉に消灯されて真っ暗になる。父はその暗闇の中で、隣にいた同年配の男性とウイスキーを飲みながら暫く雑談を続け、私も寝たふりしながら雑談に耳を傾けていた。

父が男性に訊く、「この辺りにはいつ頃から来ているんですか?」。

「戦前からですよ。戦時中も来てましたね。そしたら、上高地憲兵に引き留められて、『貴様、この一大事に山遊びとは何事か! 非国民めが!』と怒鳴りつけられましたよ」

すると、父はこれに応じて、「ああ、あの非国民って言葉は嫌でしたねえ」と笑ったのである。おそらく、戦前、父も『非国民』呼ばわりされる一人だったのだろう。

一方、昭和6年生まれの母からも、私は戦時中の話を殆ど聞いたことがなかった。母の家は、神田淡路町の小学校の門前にあった本屋で、戦前から良い暮らしをしていたため、やはり戦前の悪い話も全く聞いていない。

母は戦時中、一時期、東北地方の何処かへ疎開していたこともあったそうだが、そこの生活を嫌がって、直ぐに東京へ舞い戻って来たので、東京大空襲の日も淡路町の家に居たらしい。

しかし、淡路町一帯は、空襲の被害を全く受けずに焼け残ったお陰で、母には空襲の悲惨な記憶も殆どなかったようである。そのため、私にも戦争の悲惨さなどを語ったりしなかったのだろう。

どうやら、母の家も、それほど愛国的な雰囲気ではなかったような気がする。父と同様、気楽な都市生活者として育ったのではないかと思う。

父も母も、東京の育ちであることをやたらに自慢して、田舎を蔑むような言い方を躊躇わなかった。例えば、酷い話だけれど、父が「百姓ってのは米の味が分かるらしいな。俺はあれは酒にして飲むもんだと思っていたがなあ」と言い放ったのを覚えている。

しかし、父の家は御一新の頃になってから、東京へ出て来たらしい。それまでは三河辺りの水吞百姓だったようである。

東京へ出て来ると、まずは浅草の辺りで団子屋を営み、それから父の祖父が板前修業して料理屋を開き成功を収めたという。

父は良く祖父の自慢話をしていたけれど、多分、趣味の悪い成金だったに違いない。だから三代を経ても教養というものを身に付けることができなかった。私も含めたら四代である。

そのうえ、三代を経て成功者の祖父が持っていた気骨と根性を失っている。戦後、父は零落したまま、立ち直ることなく死んでしまった。

倅の末路はもっと悲惨なものになりそうな気もする。これが非国民たる気楽な都市生活者の成れの果てと言えるかもしれない。