メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

地方の人たちが気楽な都市生活者を救っている!

この2023年5月更新の出生率データを見ると、トルコもいよいよ2.00を割り込んで、少子高齢化の危機が迫って来ているかのようだ。

しかも、これはトルコ全域の平均値だろう。イスタンブールのような大都市に限れば、もっと低い数値が得られるのではないかと思う。

逆に、東部~南東部の農村地域では、今でも結構高い出生率が維持されているのかもしれない。

なにしろ、この地域は90年代に至っても、まだ「部族社会」といったものを残していたのである。

1992~3年頃に観たトルコのニュース番組では、女性のレポーターが東部の村を取材して、50~60歳ぐらいの部族長に村の広場で遊ぶ幼い子供たちを示しながら、「あの子たちも貴方の子供なんですか?」と尋ね、部族長が「多分そうだろ」と事も無げ答える場面があった。部族長ともなれば、村の若い女性たちに片っ端から手をつけることも出来たらしい。

当時、イズミルで知り合った30歳ぐらいのクルド人男性は、「私の父親は部族長で、母親は手を付けられた娘たちの1人に過ぎなかったため、父親は私の存在さえ知らなかったと思う」と打ち明けてくれた。彼は6歳の時に、成人していた兄がイズミルに連れてきてくれたお陰で学校へ行くことができたという。

しかし、その後産業化~都市化が進む中で、部族社会にも相当な変化が訪れていたらしい。

大都市へ越して来た部族長が、自分の部族名を冠したアパート(マンション)を建てたりして話題になったこともある。

父親の後を継いで、40歳ぐらいのモダンな女性が部族長に就任したなんていうニュースもあった。

2004年、「部族の掟」に抵抗して不倫相手の子を産み、イスタンブールへ逃げて来た若い女性が、部族の命令に従った弟に撃ち殺されるという衝撃的な事件が起きたけれど、ここにも部族社会の変化が現れていたのではないか?

殺された22歳の女性は、「不倫した男の妾になれ」という部族長の命令に逆らってイスタンブールへ逃げて来たのである。そこには強い自我の芽生えがうかがえるだろう。

現在は、こういった農村地域でも、家父長制が揺らいできているのかもしれない。おそらく、20年前と比べても、出生率は相当下がって来ているのではないかと思う。

それこそ、大都市では、今後も出生率が急激に落ちて行く可能性もある。

イスラムの信仰や「祖国」といった概念も期待されているほどの効果はないような気もする。これを、もう一つの「存亡の危機」と言っても過言ではなさそうだ。

トルコでも大都市の人たちは、田舎を酷く見下してきた。「部族なんて恐ろしい。いったい、いつの時代の話なの?」とか「もう東部の農村からは移住して来ないで欲しい」とか色々言われている。

15~6年前、イズミル地方の工場へ出張したところ、現場の職長さんが「クルド人はもう来なくていい」といった話をしていたので、「そういう差別的な発言は良くない」と言ったら、「いや、うちの隣の人たちがそう言うのだけれど、彼らもクルド語を話すクルド人なんだよね」と言い返された。

新たに越して来た南東部の人たちは、都市生活のルールを守らないので、隣の人たちはほとほと呆れ果てていたという。

イスタンブールでも同様の話は何度か聞いている。普段は温厚な友人が「2階の窓からバケツ一杯のゴミを路上へ投げ捨てるんだよ。あいつらは獣より酷い」と怒っていたこともある。

確かに、93年か94年、私も南東部を旅行して、町の河原がゴミだらけになっているのを見て驚いた。

山奥の村で牧畜でもしていた頃は、ゴミなど何処へ捨てても良かったのだろうけれど、多くの人が居住する町でそれをやられたら堪らない。イスタンブールでやったら「獣より酷い」と罵倒されても仕方がない。

91年に初めてイズミルへやって来た頃、イズミルはタバコの集積地として知られ、アルサンジャクの街角にはタバコの香りが漂っていたりした。

当時は、タバコの収穫期になると、イズミルの周囲にもあったタバコ畑へ南東部からトラックの荷台に乗せられたクルド人らが農業労働者として働きに来ていた。

彼らは畑の近くにテントを張って過ごしていたようだが、おそらくゴミなどもそこらへ散らかしたままだったのだろう。

それが90年代の中頃になって、南東部のガジアンテプ県でも産業化が進展すると、遥かに賃金の高い工場へ労働者が集まるようになり、イズミル近郊のタバコ畑には誰も来なくなった。

すると、タバコ農家の人たちは手間のかかるタバコの栽培を止めて、他の換金作物を植えるようになったため、アルサンジャクでタバコの倉庫として使われていた建物の多くは、ディスコに様変わりしてしまったのである。

結局、大都市やその近郊で暮らす近代的な人たちは、田舎者を馬鹿にしながら、彼らから恩恵を受けていたのではないか。出生率もそうだろう。「存亡の危機」からトルコを救っているのは、東部~南東部の人たちなのかもしれない。

また、南東部の人たちを「獣より酷い」と詰った友人も、80年代の産業化~都市化の波の中で、イスタンブールへ押し寄せた移住者の一人に過ぎなかった。

この移住者たちを論う「イスタンブール市民」も、その殆どは共和国以降に移住してきた人たちだ。

オスマン帝国の帝都コンスタンティニイェの人口は100万程度であり、しかもその半数近くはルム(ギリシャ人)やアルメニア人等の異教徒だった。彼らの多くは、その後トルコから去って行ったのである。

僅かに残ったルムの一人であるスザンナさんは、2011年に、私も間借りしていたジハンギルの旧宅を売り払い、アジア側の高級な住宅地であるボスタンジュへ越したけれど、周囲の西欧風に装った人たちを「西欧風に気取って偉そうな顔した田舎者」とか散々に貶しながら、次のように話していた。

「ジハンギルの旧宅の隣に住んでいたフィクレットおじさん知ってるでしょ? おじさん、シヴァス県の村の生まれで信心深いムスリムだから、この辺りの連中は“田舎者”と言うかもしれない。でも、おじさんは我々の文化を良く知っていて、敬意を表してくれた。ここの連中より百倍イスタンブール人だったわよ!」

当時、70歳ぐらいだったフィクレットさんは、子供の頃、イスタンブールにやって来て、ずっとジハンギルで家の内装や修繕の仕事を請け負ってきたそうだから、昔の顧客にはルムやアルメニア人といった異教徒が多かったはずである。

当然、彼らの文化を熟知して親しく付き合っていたに違いない。ボスタンジュの人たちは、そのフィクレットさんと比べられても困るだろう。

以下の駄文に、御一新の頃になってから、東京へ移住して来た父の家について書いたけれど、こういった事情は、東京もイスタンブールも良く似ているのではないかと思う。

merhaba-ajansi.hatenablog.com