メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

日本統治時代の朝鮮

私は、1989年の9月から4ヵ月ぐらいの間、日本で韓国から来る旅行者の案内もしていた。サムスンやLGといった大企業が送り込んでくる“研修旅行者”の団体が顧客だった。

一度、5~6人の小グループを、自分でワンボックスカーを運転しながら案内して、山谷から吉原の辺りまで連れて行ったことがある。当時は、日本と韓国の間に未だ相当な格差があったので、日本の発展を目の当たりにして気落ちしている客人たちに、日本の負の面も見せて安心してもらおうと思ったのだ。

吉原のメインストリートを走らせながら、「この両側のビルは、皆、売春をしています」と説明したところ、一行のリーダーを務めている課長さんは、「ほお、日本にもこんな場所があるんですね」と顔をほころばせてから、驚くべき一言を付け加えた。

「でも、働いている女性は、皆、韓国人なんでしょ?」

なんという被害妄想だろう。愕然として思わず耳を疑った。

「いや、この辺の店は営業許可をもってやっているから、不法就労の外国人女性は殆どいないと思いますよ」と補足したら、課長さんは部下たちを振り返り、「おい、聞いたか? 日本の女性がいるそうだ。誰か今晩行ってみる奴はいないのか?!」と発破をかけ、車内は爆笑に包まれた。

しかし、今でもこういった被害妄想的な意識は、慰安婦問題等に深刻な影を投げかけているに違いない。

韓国のジャーナリスト趙甲済氏が朴正煕大統領の半生を描いた「ネ・ムドメ・チムルペトラ(俺の墓に唾を吐け)」を読むと、朴大統領の陸英修夫人の父、陸鐘寛に日本人の妾がいた話も出て来る。

この日本人女性は、陸鐘寛の日本語家庭教師として迎えられた後に妾となったそうだ。どういう経緯で日本から朝鮮半島へ渡り、朝鮮人の妾となったのか解らないが、日本にも朝鮮にも様々な人生があり、朝鮮の人たちが、皆、一方的に虐げられていたなんてことは、もちろんなかったはずである。

2001年、トルコのイズミルに在住している韓国人女性の母親に会ったけれど、「大正10年の生まれ」と言うこの方は、おそらく日本人だったのではないかと思う。戦前、山梨県甲府から朝鮮に嫁いだそうである。

「私は若い時、言葉の解らないところへ嫁に行って苦労しました」と語っていた。

一方、2006年にイスタンブールで知り合ったトルコ人の老紳士(故人)は、戦前、朝鮮で生まれ育ったそうだが、日本語を流暢に話していたにも拘わらず、韓国語は片言ぐらいしか話せなかった。

この方の両親はロシアのバシコルトスタン出身のタタール人で、自身は日本統治下のピョンヤン平壌)に生まれてソウル(当時の京城)で育ち、戦後の1948年に家族そろって韓国を離れ、それまで頻繁に行き来していた日本へ渡り、その後1951年になってイスタンブールへ移住したという。

どうやら、当時の京城は、日本語さえ話せれば不自由しない街だったようである。

私は1988年のソウルを良く知っていたから、戦前の京城の話を伺って、何かとても不思議な感じに捉われてしまった。

考えて見ると、日本統治下の朝鮮について書かれた本を読む機会は非常に少なかった。多分、前述の「俺の墓に唾を吐け」であるとか、梶山季之の小説「族譜」「李朝残影」を読んで、当時の印象をおぼろげに作り上げていたような気がする。
それから、山本七平の「洪思翊中将の処刑」にも日本統治下の朝鮮は描かれていたけれど、この本に関しては、1988年のソウルにおける些細な見聞を忘れることができない。

ミョンドンにあった日本書籍専門店で立ち読みしていると、もう70歳は越していそうな年配の韓国人の方が現れ、店主に「何か新しい本は入っていないか?」と訊いた。

店主が「山本七平の“洪思翊中将の処刑”が届いています」(もちろん会話は全て韓国語)と答えたところ、その方は、「ああ、あの方が処刑されていなければ、我々は北朝鮮に勝っていたのに・・・」と残念そうに言ったのである。 

私は横で聞いていて、思わず失笑しそうになったが、今思えば、これは随分不謹慎な感情だったかもしれない。

日本でも、アメリカの有名な大学を卒業していればステータスになるし、私たちは日系人アメリカ軍で出世したと言って哀れにも喜んでいるものの、近隣の国から完全に支配されてしまったという歴史はない。お陰で、上述のような皮肉な話の当事者にならずに済んだ。