メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

日本も“ソフト・パワー”を・・

91年、イズミルでエーゲ大学のトルコ語教室に通い始めた後だから、確かに9月以降のことである。アゼルバイジャンから来た3人ぐらいのアゼリー人学生たちと同じ教室になった。

思えば、ソビエトが崩壊して、アゼルバイジャンは8月30日に独立宣言を出したばかりだった。
この学生たちが、その前からトルコに来ていたのか、独立宣言の後で急に留学を決めたのか、その辺りの経緯は良く解らない。

いずれにせよ、アゼルバイジャンのアゼリー語は、トルコ語と余り変わらないので、アゼルバイジャンの人たちはトルコへ来ると、いくらも経たない内にトルコ語が解るようになってしまう。彼らもなかなか上手いトルコ語を話していた。
その頃は、ソビエトが崩壊した直後ということもあって、教室では、アメリカとソビエトの比較などが話題になったりした。

すると、アゼルバイジャンの学生の一人は、必ずソビエトの肩を持つのである。「原子力爆弾を最初に開発したのは、アメリカじゃなくて我々だ」なんて主張していた。
これを伝え聞いたトルコ人の友人は、「その学生は、まだ偉大なソビエトの一員であると思っていて、アゼルバイジャンという小さな国の国民になってしまったことに気がついていないのではないか」と笑っていた。
あれから20年以上過ぎた現在、アゼルバイジャンに、ソビエトへの憧憬を懐くアゼリー人は残っているだろうか? 

プーチン大統領は、「ソビエトの復活を夢見る者には頭がない。ソビエトに郷愁を感じない者には心がない」とか言ったそうだが、ロシア人ならともかく、アゼリー人には通用しない言葉じゃないかと思う。
しかし、あらたに独立した国の人たちが、かつての支配国に憧憬を懐いたり、そこで通用していたステータスをそのまま尊重し続けたりするのは、それほど珍しいことじゃないかもしれない。
88年、ソウルの下宿にいた頃、居間のテレビに、尹吉重という全斗煥大統領時代の与党政治家だった人物が映し出されたら、下宿のおじさんが、「この方は、日帝時代に郡守を務めたから偉い方だ」と説明したので、のけぞってしまった。
あの当時でも、日本統治時代に出世したというステータスは、普通の庶民たちからも充分過ぎるほど認められていたのだろう。
尹吉重氏は、ウイキペディアを見ても、確かに「日本大学を卒業して高等文官試験に合格、朝鮮総督府に勤務する」と記されているが、郡守まで務めたかどうかは定かじゃない。

朴正煕政権の時代には、反体制の闘士として鳴らした人物で、全斗煥氏が“三顧の礼”をもって、自分の政権に迎え入れたそうである。
尹吉重氏に関しては、以下の場面がとても印象に残っている。
全斗煥氏が、大統領退任後、国民の批判をかわそうとして、百潭寺へ逃れる前に、自宅を訪れた人々と庭先で握手を交わしている姿を、韓国のニュース番組が報道していた。
観ていると、居並ぶ人たちと簡単に握手して一言二言挨拶していた全斗煥氏は、尹吉重氏の前に来ると、握手しながら何度か頭を下げ、ちょっと長く話していた。

全斗煥氏より大柄な尹吉重氏も鷹揚な態度で、全斗煥氏に何事か言い、音声が伝わって来ないから解らないけれど、その様子は『まあ、全君、頑張って寺へ篭って来なさい』と励ましているような感じだった。やはり、とても“偉い人”だったのかもしれない。
この尹吉重氏の例に限らず、たとえば、「祖父や親族に当たる人が、戦前、東京帝国大学を卒業していた」なんていうのは、韓国で大変誇らしい話に数えられていた。

日本以外で、東大卒がステータスになる国は、何処か他にあるだろうか?(台湾がそうかもしれないけれど・・・)

 これも、88年当時のソウルでの見聞だが、ミョンドンにあった日本書籍専門店で立ち読みしていると、もう70歳は越していそうな年配の韓国人の方が現れ、店主に「何か新しい本は入っていないか?」と訊いた。

店主が「山本七平の“洪思翊中将の処刑”が届いています」(もちろん会話は全て韓国語)と答えたところ、その方は、「ああ、あの方が処刑されていなければ、我々は北朝鮮に勝っていたのに・・・」と残念そうに言ったのである。 
私は横で聞いていて、思わず失笑しそうになったが、今思えば、これは随分不謹慎な感情だったかもしれない。
日本でも、アメリカの有名な大学を卒業していればステータスになるし、私たちは日系人アメリカ軍で出世したと言って哀れにも喜んでいるけれど、近隣の国から完全に支配されてしまったという歴史はない。お陰で、上述のような皮肉な話の当事者にならずに済んだ。
私は「洪思翊中将の処刑(山本七平著)」を韓国へ渡る直前の87年頃に読んでいたのではないかと思う。
以下の駄文に、86年から87年にかけて読んだ韓国・朝鮮に関する本の中で、思い出すのは「凍土の共和国」ぐらいしかないという話を書いたけれど、そんなことはなかったようである。

しかし、「・・・我々は北朝鮮に勝っていたのに・・・」と嘆息された方も、おそらく、もう鬼籍に入られているだろう。日本統治時代への憎悪も郷愁も何もかもが遠い過去になりつつある。
慰安婦の方たちも例外ではない。以前、慰安婦の問題は、日韓双方の問題だと書いた。

今でも、この問題を現在進行形で考えるならば、日本だけの問題では有り得ないと思っているけれど、「韓国にもキーセンはあったので・・・」などと言う人がいると、「それはちょっと違うんじゃないか」と言いたくなる。
日本と韓国では、風俗業に携わる女性たちに対する世間一般の扱いが大分異なる。キーセンという職業が日本の花魁のような感覚で認められていた歴史など朝鮮には全くなかったような気がする。そういう女性たちは、それこそ人間扱いされないような雰囲気も感じられた。
88年当時でもそうだったから、戦前、その世界に身を投じた女性たちの中で、騙されて連れて来られたケースはかなりの割合に及んでいたのではないか?
それを知りながら、アジア女性基金の償い金を拒んで、尚も元慰安婦の方たちを政治的な表舞台に立たせ続けている韓国の政治家や知識人らにも恐ろしいものを感じるけれど、これはやはり、何とか元慰安婦の方たちが満足できる形で早期に解決しなければならないと思う。
こうして少しずつ前進できれば、今でも日本に興味を懐いてくれる韓国の若い人たちは少なくないのだから、日本もある程度は“ソフト・パワー”を発揮できるようになるかもしれない。
もちろん、オスマン帝国が残したような絆は期待できない。民族の概念さえ曖昧だったというオスマン帝国で、人々は母語等の違いを超えて、「同じムスリムである」という連帯感を持ち得たらしい。
現在、トルコの外交政策は、シリアやイラク、エジプトでも、いずれは民主主義への動きが加速するという長期展望に立って、非民主的な国家よりも、民衆との交流に投資しているようだが、ここから日本も多くのことを学べるのではないかと思う。

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