メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

ドイツの民族主義的なロマンティズム?

2017年の3月、トルコのニュース専門局の討論番組で、ある識者が次のように語っていた。

「EUに合理性をもたらしていたのはイギリスだった。そのイギリスが抜けてしまった後には、ドイツの民族主義的なロマンティズムだけが残った。これから、EUは大変なことになる・・・」

民族主義的なロマンティズム」と言われても、私には良く解らないが、歴史をざっと眺めただけでも、ドイツという国には、私たち日本人が想像もつかない強い精神と熱情が潜んでいるのではないかと思ってしまう。

例えば、第一次世界大戦で叩きのめされてから、僅か21年後に、また華々しく世界へ挑みかかっている。

全てをナチスヒトラーの所為にしているけれど、多くの人々が、『よし、もう一度戦ってやろう』と決意を固めていたように思える。そして、ドイツの軍人たちは最後まで勇敢に戦った。

100万~200万の人口しかない前近代的な社会ならいざ知らず、ドイツほどの歴史と規模を持つ社会が、「1人の独裁者によって侵略戦争を引き起こした」という物語を何の疑いもなく信じるのは難しい。

全体主義的な体制を招いてしまった社会の体質であるとか、人々を戦争に駆り立てた“熱情”といった要因はなかったのだろうか? 

私は、ベートーヴェンブラームス交響曲をいくつか聴いただけでも、その熱情に痺れてしまう。しかも、決して乱れていない、非常に秩序立った熱情である。あれはちょっと恐いような気もする。

また、ドイツは戦前の残虐行為を深く反省しているのに、日本は反省が足りないと良く言われているけれど、これはどうだろうか?

日本は、内鮮一体や大東亜共栄圏で失敗したため、戦後はやたらと内向きになってしまった。ある右派の政治家は、戦後になって次のように述べたそうだ。

「今まで、朝鮮人とか訳の解らない連中と一緒にやって来ましたが、これからは我々日本人だけです。力を合わせて頑張りましょう」。

朝鮮の人たちにしてみれば、「一緒にやらせて下さい」なんて一言も頼んでないので、こんな妄言を吐かれては堪らない。一緒になろうとしたのは、もちろん日本の方だから、これは、「戦前、我々のやったことは全て間違いでした」と自らの過ちを認めた発言ではないかと思う。

実際、それ以後も外国人を受け入れたりすることに対して、とても慎重になっている。これはやはり、かなり反省していたということかもしれない。

一方でドイツは、戦前、ユダヤ人やロマ民族といった異分子をまとめて排除しようとして大騒ぎになったのに、戦後の未だ50年代に、早々とトルコ人という異分子を招き入れている。

(50年代に移民が始まった時点では、トルコ人が押しかけて行ったわけじゃなくて、ドイツ側が労働力として招聘していた。)

過去の反省に基づいた不安といったものは、なかったのだろうか?

まあ、トルコ人の移民が社会の禍となって困ったことになれば、ドイツの人たちは、我々のように引っ込み思案になって不安を募らせる前に、また勇気を持って積極的に解決を模索するのだろうけれど・・・・。