谷崎潤一郎の「細雪」を読んだのは20年ぐらい前だったと思う。その頃は既に大阪で2年ほど暮らした後なので、梅田や心斎橋、天王寺といった地名が出て来ると、その辺りの現況を思い浮かべながら読んでいた。一方、主な舞台となった神戸の方になると、三ノ宮、蘆屋、夙川の位置関係も良く解らないまま読み進めていた。
それが一昨年来、三ノ宮へ通勤するようになって、阪急神戸線なども頻繁に利用する今は、蘆屋も夙川も、とても身近に感じられる。そして、阪急線の車内放送を聞きながら、『洪水で妙子が板倉に助けられたのは蘆屋だろうか、夙川だろうか?』なんてことが気になったりしたので、「細雪」を初めからまた読んでみることにした。先週より3巻目を読んでいる。
というわけで、今年の桜は「細雪」に登場する「嵐山」と「平安神宮」にしようと1巻目を読んでから考えていて、今日、その嵐山と平安神宮を歩いて来た。
嵐山は、昨年の4月末、桜の散った後に訪れて見たけれど、コロナ騒ぎで人影も疎らな状態だった。しかし、今日は桜も満開とあって渡月橋の辺りはかなり賑わっていた。半袖で歩けるほど陽気も良かったので、河原に下りて座り込んでいる人たちもいた。
「細雪」には、渡月橋の袂近くの河原の様子が次のように描かれている。「・・・一つの異風を添えるものは、濃い単色の朝鮮服を着た半島の婦人たちの群がきまって交っていることであるが、今年も渡月橋を渡ったあたりの水辺の花の蔭に、参々伍々うずくまって昼食をしたため、中には女だてらに酔って浮かれている者もあった。」
当時は、日本人女性の多くも和服を着ていたのだから、当然のことなのかもしれないが、チマチョゴリで河原に集まって昼を食べている光景を思い浮かべると、現在よりよっぽど良い時代だったのではないかと思えてしまう。
さて、嵐山で今日の目的地は「大悲閣」だった。小高い山の中腹にある「大悲閣」で蒔岡家の三姉妹が弁当を開いたと記されているが、昨年、対岸から眺めた「大悲閣」は、登ったら結構距離もありそうに思えた。
実際、登って見ると、私の足ならそれほどでもないが、少し汗をかくくらいの運動にはなる。その所為か、訪れる人も少なく、渡月橋の賑わいが嘘のように静まり返っていた。
「細雪」の三姉妹はお嬢さん育ちで、箸より重たいものは持てないひ弱な女性のように描かれてはいるものの、やはり当時の人たちは皆相当健脚だったようである。というより、今の人たちが歩かな過ぎるのではないだろうか。
「細雪」で三姉妹は、嵐山からタクシーを飛ばして平安神宮へ向かうことになっているが、もちろん私にそんな贅沢はできない。嵐山電鉄で四条大宮に出て、そこからまた歩いた。
「細雪」では、平安神宮の神苑の桜が最も見所になっていたけれど、桜は樹の数もそれほどではなかったし、一つ一つの樹も小振りなものばかりで私はちょっとがっかりした。そもそも、花を愛でるような感性もないから、私には「吉野の桜」のように夥しく群生している迫力が合っているのかもしれない。