「紫禁城の黄昏」を読んでみようと思ったのは、「清朝の滅亡からラストエンペラー愛新覚羅溥儀が満州国の皇帝に即位するまでの史実に興味を感じた」ためではなかった。
溥儀の家庭教師であった著者ジョンストンが、当時の紫禁城・宮廷の日常を書き記したと言われる同書の中に、果たして宮廷の人たちが満州語で会話するような場面は出て来るのか気になったからである。
しかし、まだ第2章も読み終わらない内に、そういう場面のないことは明らかになってしまった。
ジョンストンは、溥儀の満州語の教師であった伊克担の満州語について以下のように記している。
「私は、彼の満州語の知識の程度についてとやかくいえる立場ではないが、彼の北京語は、満州語よりずっと流暢であった、と思う。」
伊克担の死後、満州語教師の後任はなく、結局、溥儀は満州語を殆ど話せないままだったらしい。
康熙帝が孫の乾隆帝に書いたという満州語の手紙が残っているそうだから、その頃までは満州語が理解されていたはずである。
以後、満州語は如何なる過程を経て失われていったのだろう?
言語というのは、意外に簡単に失われてしまうのかもしれない。
さて、「紫禁城の黄昏」で、もう一つ非常に興味深いと思ったのは、皇帝の誕生日の儀式の模様が描かれた第3章の以下の部分である。
「中国の皇帝は、高級将官につきものの金ぴかの勲章制度を設けず、自身も玉座にすわるときは武人の服装をせず剣も帯びないという、世界でもごく少数の大君主であったからである。いかなるものであろうと戦争を賛美する傾向は、中国人の理想とする王者にふさわしくなく、かつ宮廷の儀式や音楽の背後にある支配原理ともまったく矛盾するものだからである。」
支配原理とは即ち儒教のことではないかと思うが、中国の王朝では儒教思想に基づく文民統制が徹底されていたのだろう。
もちろん、武力で中国を制圧した満州人は騎馬民族的な武人だったはずだ。
けれども、清朝を築いた後は、王朝の伝統に従って、儒教思想と中国の文化を身に着け、母語である満州語と共に武人としての気質も失ってしまったようである。
いつだったか、トルコのジャーナリストが新聞のコラムに「アタテュルクは政治家となってから軍服を着ることはなかった」と誇らしげに書いていた。
ヒトラーやスターリンは、職業軍人の出身ではなかったにも拘わらず軍服を着ていたし、軍人だったドゴールも、国家元首として軍服姿で国民の前に現れたりしていた。それに比べて、アタテュルクは遥かに文民統制の重要性を理解していたというのである。
しかし、中国の文民統制の伝統には、それよりもさらに深く長い歴史があったに違いない。残念だが、そのために、西欧列強と日本の武力の前に為す術もなく敗れ去ってしまったのだと思う。