メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「いじめゼロプロジェクト」

福岡市は、「いじめゼロプロジェクト」とやらに取り組んでいるらしい。市内の方々の小学校などに、「いじめゼロ」を謳ったスローガンが掲げられている。
日本の社会で、“いじめ”をなくすことが可能であるとは、とても考えられないが、配送センターで働くネパール人の就学生たちを見る限り、彼らの社会に“いじめ”は余りないような気がする。
さぼったり、怠慢な作業で他の就学生らに迷惑をかける者がいても、ちょっとからかうぐらいで、罵倒したり、“しかと”したりして、仲間外れにしようとはしない。
この心優しいネパールの人たちに接していると、文明的であるとは、いったいどういうことなのか考えさせられてしまう。もっとも、私たちの弥生時代に、既に偉大な文明を築き上げていた彼らの方が文明的なのは、当然のことであるかもしれないが・・・。
そして、その文明は、人々が争わずに安寧秩序を保って平和に暮らして行ける社会を築くためのものではなかっただろうか?
カースト制によって身分を固定してしまったのも、自由な競争を妨げ、安寧秩序を保つための知恵だったように思える。非暴力の平和主義を貫いたマハトマ・ガンディーも、カースト制には反対していなかったらしい。
身分が完全に固定されたなら、人々は競争に打ち勝って、さらに上を目指そうとは思わなくなるだろう。また、自由な恋愛も禁じてしまえば、恋敵との熾烈な争いもなくせるはずだ。

現在、文明的であるとされている先進諸国では、人々は皆自由に競い合い、自由な恋愛を謳歌しているけれど、こういった先進国は、かつて文明の周辺にいた野蛮国ばかりじゃないかと思う。日本も偉大な中華文明の周辺にいた“野蛮な武人の国”だった。
また、今でこそ、軍部に対する文民統制が、民主的な文明社会の基準のように言われているものの、英国や日本を始めとして、主だった“先進国”は、いずれも長い武人支配の歴史を有している。文民統制が徹底していて、その歴史が最も長かったのは中国ではないだろうか?
その代わり、歴史上、中国が軍事的に強かった時期は余りなかったようだ。軍事力では野蛮な夷狄に全く敵わないので、ひたすら文明力で感化して懐柔しようとした。
ところが、大航海の時代以降に台頭してきた英国、そして、かつては野蛮な夷狄に過ぎなかった日本に対しても、その文明力が通用しない時代が到来してしまった。そのため、今や中国もその文明をかなぐり捨て、野蛮な富国強兵に努めようとしている。
私たちは、時間に厳しかったり、細かいルールを守ったり、衛生的であったりすることが文明の証であるかのように考えてしまいがちだけれど、その多くは軍事的な社会の中で育まれてきたような気がする。
今、就学生たちが通っている日本語学校では、教室やトイレの掃除を教育の一環として彼らにやらせているそうだが、これも何だか軍隊生活に由来しているように思えてならない。
軍事教練として行われてきた日本の武芸はもちろん、西洋のスポーツにも、なんだか軍事的な雰囲気が漂っている。これに対して、ネパールやインドのスポーツの弱さは、いったいどういうことだろう? 10億以上の人口があるのに、オリンピック等で殆ど活躍していない。争い事を避けようとする平和な文明の歴史があまりにも長かった所為だろうか。
一方、中国は、野蛮な富国強兵を目指す国家がスポーツ振興に力を入れているから、オリンピックでも結構活躍しているけれど、格闘技では余り目立った活躍がないように思える。あれほど世界一になるのが好きなのに、ボクシングの世界チャンピオンは、まだ数えるほどしか出現していない。国家はともかく、人々は今でも至って文明的なのかもしれない。喧嘩になっても、殴り合ったりせず、口喧嘩ばかりだという話も良く聞く。
しかし、こうして考えて見ると、競争を抑えて、とにかく安寧秩序と平和を保とうとした古い文明は、私たちの美意識に全く応えていないような気もする。スポーツで競い合い、学業や仕事でも、頑張って競争に打ち勝った人が評価される社会は素晴らしい・・・これで良いのではないか?
自由な恋愛によって男女が愛し合えば、当然、嫉妬も憎悪も生まれ、争い事は絶えないけれど、これがない社会のつまらなさに私たちは堪えられそうもない。
だから、「いじめゼロ」というのも、私には何だかナンセンスであるように思えてならない。地位を利用して、下の者をいじめたり、そのやり方が余りにも陰湿だったり、過激だったりする“いじめ”は、防ぐように努めるとしても、仲間内の“いじめ”まで全てなくしてしまうのは、日本の社会では土台無理な話だろう。
それよりも、“いじめ”に負けない強い子に育てた方が良いのではないかと思う。