メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

名誉の殺人

2004年の3月、南東部のビトゥリス県で、妻子ある従兄と不倫して妊娠した未婚の女性が、部族社会の掟に従った実の弟に撃ち殺されるという衝撃的な事件が報じられた。
保守的な南東部の村で、殺された22歳の女性は、危険を顧みずに既婚の従兄と逢瀬を重ねていたらしい。「部族の掟」なんて前時代の遺物であると思って安心していたのだろうか? それとも、充分に危険を覚悟しながら、情念に身を任せていたのだろうか?
近松門左衛門の“心中物”を読むと、その一線を越えたらどうなるのか明白であるのに、突き進んでしまう登場人物らの軽挙妄動に呆れてしまうけれど、男と女の情念には、そのぐらい荒々しい力があるのかもしれない。(私は殆ど理解出来ないが・・・)
昨年、イスタンブールを舞台にしたハンガリーの映画を観た。夫に裏切られた中年のハンガリー人女性が、イスタンブールで妻子ある中年のトルコ人エンジニアと恋に落ちるという話である。

 初めて、ホテルで彼女の部屋に招き入れられた中年男(トルコの有名なシンガー・ソング・ライターであるヤヴズ・ビンギョル氏が演じている)が、思わず彼女を抱き寄せると、彼女は「ストップ!」と叫んで身を引く、中年男は「アイム・ソーリー」と謝って部屋を出て行ってしまう。
私も、あの場面と同じように、知り合って間もない状況で、未だ良く解らない相手から、「ストップ!」なんて叫ばれたら、『なんと愚かな勘違いだったのだ!』と後悔の念に駆られ、平謝りに謝って部屋を出て行き、2度と彼女を訪ねることはなかったと思う。
映画では、男が出て行ってしまったことに彼女は驚き、再会を求めて話が続くわけだけれど、やはり「ストップ!」と言われて、その単語の意味が解れば、“止まる”のが人間として当然の行動ではないのか?
しかし、世の中には「ストップ」の利かない人たちが少なくないようである。「電気が走った」などと言って進んでしまうらしい。何処で電気を計っているのだ?『あんたは検電テスターか?』と訊きたい。
とはいえ、トルコでエルドアン大統領のようなイスラム的な人物が、「電気が走った」と言っても、それは、直ぐに婚約して結婚するだけである。

 もちろん、イスタンブールのような都会なら、保守的じゃない人たちが、思う存分に電気を走らせて感電しちゃっているかもしれないが、保守的な地域で「ストップ」が利かなくなると、10年前でも、ああいう悲劇が起こってしまう。映画の中年男みたいに、皆もっと鈍感であれば良いのだが・・・。
今はどうだろうか? さすがに、「名誉の殺人」などと呼ばれる、あの手の事件は、10年前と比べて、かなり減少しているのではないかと思う。
10年前の事件でも、殺された女性の兄は、犯行を躊躇っていたようである。それが名誉じゃないことぐらいは解っていたのだろう。そもそも、最も弱い女性が真っ先にやられてしまう「名誉の殺人」ほど、卑劣で恥ずべき犯罪もないはずだ。

ロシアの小説には、「アンナ・カレーニナ」を読んでも、「戦争と平和」を読んでも、妻の不倫相手と決闘の話が出て来る。ロシアの男たちは、決闘して力ずくで他人の妻を奪い取ることができたらしい。これこそ、“名誉の殺人”であるかもしれない。
でも、どちらの社会が、より平穏でいられるか考えたら、それは弱い女性の方を抑えつけてしまう社会じゃないだろうか。
以下の駄文で、動物のオスは、メスを争う時に牙をむいて最も凶暴になるのだから、人間も恋敵と争うのを止めてしまえば、世の中は平和になるとか下らない話を書いたけれど、これは、それほど間違っていないような気もする。

女性を巡って男たちが、やたらと決闘する社会なんて、物騒で堪らないはずだ。

それで、イスラムに限らず、昔は多くの社会が、自由な恋愛を制限して、安寧秩序を保とうとしたのかもしれない。皆が決まりを守って大人しくしていれば、何も起こらないのだから、特に暴力的な制度とは言えないだろう。
ところが、情報の伝達が加速した現代では、もう若者たちの恋愛感情を制限することなど出来なくなってしまった。保守的なトルコ南東部の村でも、禁断の恋に身を投じてしまう女性たちが跡を絶たなくなる。
さらに、あの事件では、「男の妾になって村を去ってくれ」という部族の長の命令を、22歳の女性が拒否している。彼女は強い自我で独立を望んでいたのだろうか。
これを抑え込もうとしたら、女性を家に閉じ込めてしまうよりないかもしれないが、サウジアラビアでさえ、それはもう難しいようである。
サウジアラビアの男たちは、恋愛という壮絶な戦いを経て来ていないから、のんびりして優しく、サウジアラビアの社会には、あまり“いじめ”も起きないのではないかと考えたりもしたが、こういう社会は発展もしないと思う。
男も女も恋愛しながら(つまり戦いながら)、人は成長し発展を遂げるのだろう。私の人生は、やっぱり発展がなかった。“電気が走った”どころか、静電気も起こせなかったような気がする。

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