メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

自由恋愛のすすめ

先日、前にも何度か顔を合わせ、いろいろ話を聞いてみたかったトルコ人男性に偶然会ったので、良い機会だと思って長々話し込んでしまいました。

男性は教養のある40代の妻子持ち。宗教は信じないと言い、イスラム的な傾向やスカーフの女性を痛烈に批判している左派ですが、硬直したコミュニストではなくて、自由な進歩主義者といった雰囲気だから、色恋についても冗談を交えて気楽に話せます。この日も彼は冗談めかして私の恋愛事情を問い質そうとしました。

「君はトルコ人の女と遊んでみたりしないのか?」

「いや、私は不器用に出来ているからそんなこと想像もつかないし、もうこの歳ですから、無理して頑張ってみようとも思いません。こう見えても結構真面目に考えているんですよ」

「真面目? 相手も君に気があって、君も望んだなら、なにもそう固く考えることはないと思うよ。僕なんかは女性と知り合って波長が合えば、直ぐ次の段階へ進むけどなあ。相手もそう望んでお互い楽しむだけだから、別に悪いことじゃないでしょ?」

「でもまあ、相手に対して真摯な気持ちがなくて、一時的な欲望だけで進んでしまうのはどうかと思いますが・・・」

「大人の男と女が了解し合ってのことだよ。一時的な欲望であっても構わないじゃない。君はえらく保守的な考えを持っているね」

「しかし、あなたの場合、奥さんがいらっしゃるんですよね?」

「結婚したからには女房だけにしろって言うのかい? そりゃ無理だよ。君も随分固苦しいことを言うねえ」

「奥さんに何と説明するんですか?」

「そういう余計なことは言っちゃあいけないんですよ。気がつかれないようにしないとね」

「それでは、奥さんもそうやって他の男性と遊んで良いということですか?」

私がこの最後の問いを発すると、彼の顔から笑みが消え、一瞬“ピクッ”と緊張が走り、「それは駄目だ。許されることではない」と声を震わせたのです。

「トルコでは決して許されない。これはトルコの文化だからね。パンパンと射殺してお終いだよ」

「でも貴方は、男女の平等を盛んに説いていたじゃないですか。スカーフにも反対していましたね」

「男女の平等とは別次元の問題だ。トルコでは、パンパンでお終い! それ以外にない!」

「誰を殺すんですか?」

「二人ともだよ!」

「相手の男も武器を持っていたら?」

「そっ、それは・・・。見つけ次第、そこで始末するんだ。武器なんて持てないだろ?」

「それでは余りにも卑怯じゃありませんか? 昔、ロシアじゃ決闘したって話ですよ。どちらがその女に相応しいかってね。それで落命してしまう哀れな亭主もいたそうです」

「なんて馬鹿げた話だ。女房を寝取られたうえに殺されてしまうなんて・・・」

まあ、日本にもいろいろな男がいるだろうけれど、少なくとも“大人の男と女が了解し合って”などと自由な恋愛を標榜する人であれば、最後の問いに対し、それまでの流れから「俺が知らないだけで宜しくやっているんじゃないの? どうだって良いよ」ぐらいのことは言いそうじゃないでしょうか? 

あれほど打って変わった態度に出る人はいないような気がします。

という話も交えながら、「そういう身勝手な自由恋愛の主張より、イスラム主義者の主張はよっぽど整合性が取れているのではありませんか?」と尚も暫くねちねち問い詰めたところ、彼は徐々に冷静さを取り戻しました。

「つい興奮して可笑しなことを言ってしまった。君の言う通りだよ。かなり矛盾しているね」としょげ返りながらも、「中央アジアにいたトルコ人も、もともとアナトリアに住んでいた人たちもそれほど貞操に拘っていたわけではない。これはイスラムと共にもたらされた文化だ。イスラムの所為で我々はつまらないことに興奮するようになってしまった」と進歩主義者の面目を保とうとしていました。

こういう身勝手な男たちから弄ばれないように自分を戒める敬虔な女性たちの信仰心も何となく理解できるように思えます。

一方で、男の身勝手な“自由”であっても、こうして恋愛を楽しむ男女が増えれば、女性たちの自我も芽生え、“女房の浮気は許さない”という男の我儘は切り崩されてしまうかもしれません。

実際、今のイスタンブールで育った新しい世代には、一応イスラムを信仰しながら、平等に自由恋愛を楽しんでいる若者たちもいるのではないでしょうか。