メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

死刑の是非

昨日、オウム真理教麻原彰晃が処刑されたというニュースが伝えられた。トルコで、やはりカルト教団を率いて国家の転覆をはかり、多くの方が亡くなったクーデター事件を主謀したフェトフッラー・ギュレン師も、日本の法律で裁かれれば、間違いなく死刑の判決を受けるのではないかと思う。

しかし、現在、死刑が廃止されているトルコの法律では、仮にギュレン師がアメリカから送還されたとしても、死刑の判決は下せない。今後、法改正して死刑を復活させたところで、それを過去の事件に遡及して適用することは出来ないそうだから、ギュレン師が処刑される可能性は、殆どないと言って良いだろう。

“7月15日”を前後して、“ギュレン師の処刑”は、また取り沙汰されるに違いないけれど、これが現実的な話になるとは思えない。トルコ共和国は近代的な法治国家だからである。

そもそも、今、トルコで盛り上がっている“死刑復活”の議論は、児童に対する性的な虐待・強姦致死といった犯罪に端を発していたらしい。私はこちらの事件の報道をちょっと見落としていた。

EU加盟を目指して死刑を廃止したものの、加盟の夢が色褪せてしまった今となっては、これにそれほど拘る必要はないかもしれない。世界を見渡せば、米国や中国のような強国は、いずれも頻繁に死刑を実施している。

いつだったか、「アメリカがなかなか衰退せずに、力を維持している要因の一つに“銃社会”があるのではないか」などと愚にもつかないことを漠然と考えたりしたけれど、“死刑”もその要因の一つであるような気がしてきた。

弱肉強食の殺伐とした国際社会を“富国強兵”によって生き抜くためには、国家も社会も極端に非暴力的になるのは不都合であるかもしれない。


*訂正:死刑を実施している強国として、ロシアの名を上げてしまいましたが、ロシアは既に死刑を廃止しているそうです。