メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

いじめも争いもない社会

もしも、ベールで顔を隠さない女性の外出は絶対に許さず、写真や映像を伝える媒体も徹底的に排除すれば、その社会の男たちは、自分の妻や母以外に、女性の顔を認識できないわけだから、妻の容貌に不満を抱いたり、他の夫婦に嫉妬したりしないだろう。
もちろん、恋愛感情なども生じる余地がない。結婚相手は、全て親が決める。
こうして、恋敵と争う必要がなくなった社会では、漱石の「こころ」の先生みたいに、友人を出し抜いてしまおうとは誰も思わないはずである。
非常に争いや諍いの少ない、いじめなんて殆どない、とても平和な社会が出現するかもしれない。でも、恐ろしくつまらない世の中になりそうだ。停滞どころか、どんどん退化して行くような気がする。

まあ、タリバンでさえ実現できなかったこんな社会を仮定して見ても始まらないだろう。
この世で男女が愛し合えば、嫉妬や憎しみも生まれ、争いや諍いは絶え間なく続き、いじめも当たり前になるとはいえ、それが進歩と発展の原動力にもなって来たと思う。
そもそも、強い遺伝子を残そうと争う動物たちは、そうやって進化して来たのではないか? 
「恋に落ちた」とか、「電気が走った」とか言いながら、親の意見を聞かず、経済状況も顧みることなく情交に至るのは、何も人間に限ったことじゃない。犬や猫も皆やっている。
かえって、親の取り決めに従って結婚するとか、金銭の授受によって情交を結ぶというのは、人間にしか見られない、高度に文明的な行いと言えそうである。
それこそ、「電気が走った」なんて直感が働く奴は、動物的な本能に支配されているだけではないだろうか? 自分で言うのもなんだが、私は余りにも文明的だったような気がする。
ルネッサンスとかいうのも、要するに「動物的な本能に立ち返って、もっと進化を遂げよう!」ってことだったのかもしれない。
しかし、こういうためにならない妄想を書き連ねて、自分を慰めている馬鹿たれは、いったい何の為に生きているのだ。
「なにくそ」と怒り、闘わなければ、この無慈悲な社会の落伍者になってしまう。安らぎばかり求めていると、結局はこの有様である。
動かぬ山に向かって「来い!」と叫んでくれる人がいなかったら、真理は極められなかっただろう。
いじめを減らす運動は結構だが、これもやり過ぎれば、人々の闘争心が弱まり、力を失った社会は、国際社会の中でいじめられるだけではないのか? 
現に、中東の社会は、そうやって100年以上、いじめられ続けて来たような気がする。