メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

バクラヴァは宮廷の味?

松屋銀座「ナーディル・ギュル」のバクラヴァは、イスタンブールの「カラキョイ・ギュッルオール」の工房で作られた生地を空輸して、店内で焼き上げているそうだ。

そのため、かなり高い値段設定になっているけれど、バクラヴァの生地を一枚一枚薄く延ばす工程は非常に難しく、イスタンブールの熟練した職人たちでなければ成し得ない技術だろうから致し方ないのかもしれない。

「普通のパイ生地のように、バターを挟み折りたたんで延ばせば良いのに、何故、一枚一枚延ばしているのか?」と疑問を持つ人たちもいるようだが、カラキョイ・ギュッルオールのバクラヴァを食べてもらえれば解ると思う。「サクッ!」とした食感の良さが全く違うのである。一枚一枚がきれいな層を成している外見も美しい。

以下のYouTubeの動画で、社長のムラット・ギュル氏は、トルコのバクラヴァオスマン帝国の宮廷で洗練されて来た歴史を語っている。バクラヴァは、宮廷の人々に愛された極めて高級な菓子だったのだろう。

松屋銀座が、意匠をこらしたパッケージなどにより、バクラヴァの高級感を高めているのも嬉しい。トルコと言えば、鯖サンドのようなB級グルメが主に紹介されてきたのを苦々しく思っていたからだ。

ネットで検索しても、「トルコのストリート・フード」とか「屋台の料理」といったものばかり出て来てうんざりする。

ヨーロッパの人たちがトルコ料理世界三大料理の一つに数えたのは、オスマン帝国の宮廷料理に由来する洗練された味覚を評価したからに違いない。それを屋台料理と言うなんて・・・。

そもそも、屋台の料理を語るなら、まずは日本の鮨や天婦羅から始めるべきだろう。

志賀直哉の「小僧の神様」を読むと、大正時代でも、まだ鮨は屋台で食べる庶民の味だったようである。身分のある人たちは、そんな鮨を食べに行くのが恥ずかしかったらしい。それが、今や日本を代表する料理になっている。

日本には「宮廷料理」を育む文化的な背景もなかったように思える。江戸の将軍の食事は結構質素だったという。(茶道に由来する和菓子にはかなり高級な雰囲気もあるけれど・・)

江戸の庶民が楽しんでいた「歌舞伎」を、高級なオペラのように紹介するのも良く考えると変である。しかし、鮨と同様、そこに日本の庶民的な文化の逞しさが感じられるのは素晴らしいと思う。

だからこそ、トルコの食文化についても、「屋台の料理」などではなく、宮廷から広がった要素を考えて評価すべきではないだろうか。


 

 

トルコの菓子「キュネフェ」も美味い!

バクラヴァが菓子の王様なら、キュネフェは王子か女王か? このキュネフェも一度食べたらやみつきになるくらい美味しい。

小麦粉を薄く溶いて春雨状に焼き上げたテルカダイフでチーズを包み、さらに両面をこんがり焼いて甘いシロップをかけたキュネフェは、温かい焼きたてを食べる。多分、冷えたらチーズが固くなってしまうのだろう。

バクラヴァは焼き上がりにシロップをかけた後、充分に冷ましてから供するが、「カラキョイ・ギュッルオール」の工房の階下にある店で、工房から下りて来てショーケースに並んだばかりのバクラヴァには、まだほんのりと温かみが残っていたりして堪らなく美味しかった。

焼きたてを食べるキュネフェは、もちろん無理だけれど、私はバクラヴァも日本へ土産に買って行ったことがない。焼き上がりから半日過ぎただけでも、あの「感動的な美味しさ」は半減してしまうからだ。バクラヴァは、是非、買い求めたその日の内に召しあがってもらいたい。

バクラヴァに続いて、キュネフェの店も日本でオープンしないものかと思うけれど、こちらは店内の席で焼きたてを食べてもらわなければならないところが難点であるかもしれない。

しかし、作り方はバクラヴァのように難しくはなさそうだから、日本で採用された人たちが短期間でマスター出来るような気もする。

トルコでキュネフェの本場とされているアンタキアの人が聞いたら気分を悪くするに違いないが、チーズはモッツァレラなどを使っても何とかなるのではないだろうか?

イスタンブールに居た頃は、カドゥキョイのセイドールという菓子店でよくキュネフェを食べた。セイドールでは、以下の写真で御覧になれるように、店頭にある焼き台で次々とキュネフェを焼き上げていた。

しかし、実を言うと、以前、このセイドールの向かい側にあったレストランのキュネフェがもっと美味しかった。

おそらく、あのレストランのキュネフェ(最後の写真)は、ひっくり返して両面を焼く伝統的な製法ではなく、オーブンで焼いていたようである。何故なら、キュネフェの表面のカダイフがふわふわっと盛り上がっていて、焼く時に押されていないように見えたからだ。そのため、テルカダイフのサクサク感が一層感じられて美味しかった。

トルコの友人に訊いたら、「邪道だ!」と言われたけれど、美味しければ良いのではないか? それに、これならもっと簡単に作れそうである。

オーブンで焼いた(?)キュネフェ

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松屋銀座に出店したナーディル・ギュル氏のバクラヴァ愛!

数ある美味しいトルコの菓子の中でも際立っているバクラヴァは、菓子の王様と言って良いと思う。

そのバクラヴァで有名なイスタンブールの菓子店「カラキョイ・ギュッルオール」が東京の松屋銀座に出店したという。

バクラヴァを食べに東京まで行ける経済的な余裕は全くないけれど、出店のニュースを聞いただけでも嬉しい。

「カラキョイ・ギュッルオール」は、トルコ国内にも支店が無い。イスタンブールに居た頃も、絶品のバクラヴァを味わうために、カラキョイ税関前の本店か、クルチ・アリ・パシャ・モスクの裏手にある工房まで行かなければならなかった。

それでも、カラキョイは頻繁に出かける所だったので、2015年から緩い糖質制限を始める前は、それこそ週に一度ぐらいは立ち寄って味わっていた。

2015年以降も、たまには出かけていた。糖質制限バクラヴァの誘惑には負けてしまうのである。

トルコで初めてバクラヴァを食べた時は、その甘さに驚いただけだが、慣れてきたら、店による味の違いが分かるようになった。

そうなると、「カラキョイ・ギュッルオール」か、ペンディクのガーズィブルマといった特定の店以外では、がっかりすることが多くなってしまった。そのぐらい「カラキョイ・ギュッルオール」のバクラヴァは美味いのである。

松屋銀座では、代表者の名を冠して「ナーディル・ギュル」という店名になっている。

現在の社長は子息のムラット氏で、ナーディルさんは経営の第一線からは退かれたようだが、来日して広報に努めるなど、まだまだ隠居は考えていないらしい。

おそらく、ナーディルさんのバクラヴァ愛が隠居を許さないのではないだろうか?

カラキョイの本店では、ナーディルさんが他のお客さんたちに交じって、カウンターの立席でバクラヴァを食べているところを何度か目撃したことがある。その様子からもバクラヴァを愛する気持ちが伝わってくるかのようだった。

2010年だったか、私がコーディネーターを務めた日本のテレビ番組で、「カラキョイ・ギュッルオール」を紹介したことがある。

その時、ナーディルさんは、ラマダンで断食中だったにも拘わらず、カメラの前でバクラヴァの味わい方を見せてくれた。

バクラヴァは、まずは目と耳、それから鼻と舌で楽しみ、最後にお腹を満足させるのだそうである。

目で美しい黄金色に焼きあがったバクラヴァの表面を良く見てから、フォークを入れて「サクッ」という音を聞き、その甘い香りを吸い込む。ナーディルさんは、ここまで満面の笑顔で演じて見せたけれど、断食中のため、舌で楽しむところは、微笑みながら口を示すだけにして、最後にお腹を叩いて「ここも満足です」と笑ったのである。

撮影は8月だった。最も過酷な夏季の断食期間中、しかも断食が明ける日没まで何時間も残している昼の時間帯に撮影された。

バクラヴァの甘い香りを吸い込んだら、思わずかぶりつきたくなってしまうだろう。それを我慢しながら笑顔で演じてくれたナーディルさんには頭の下がる思いがした。

撮影終了後、ナーディルさんは私たちにバクラヴァを勧めてから、広報担当の女性社員を呼び、「君は断食していないよね」と言って、フォークを入れてしまったバクラヴァの皿を彼女に勧めたのである。この一部始終でも笑みを絶やさなかったナーディルさんの人柄もバクラヴァと共にお伝え出来れば良かったけれど、番組ではラマダンについても触れることはなかった。

*「カラキョイ・ギュッルオール」の写真を載せようと思って探してみたところ、以下のピンボケのワンショットしか見つからなかった。これは2011年に亡き母を案内した時のものである。おそらく、私にとって「カラキョイ・ギュッルオール」でバクラヴァを食べるのは日常的なことだったから、わざわざ写真に収める必要を感じていなかったらしい。

*以下はペンディクにあるガーズィブルマのバクラヴァ

*ガーズィブルマ ここのバクラヴァも美味しい

 

プーチン大統領の奇行/上海の奇態

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9月にサマルカンドで開催された上海協力機構の首脳会議に参席したプーチン大統領の奇行がトルコで話題になっていた。

奇行の場面は、上記のYouTubeの動画から見ることができる。プーチン大統領は会見するエルドアン大統領を待っている際に、この奇行を見せたという。

当初、それが何を意味するのか解らず、色々な説が飛び交っていたけれど、事実は直ぐ明らかになった。

何のことはない、プーチン大統領は、トルコのイブラヒム・カルン大統領補佐官がロシア側の要人らとハグを交わした様子を真似して見せただけらしい。

真似しながら笑っているところを見ると、プーチン大統領はハグに喜んでいたようにも思える。

『コロナが終わり、以前と同じになって良かったじゃないか』という感じかもしれない。

上記の駄文でお伝えしたように、2020年5月18日、トルコのサバー紙で、ハサン・バスリ・ヤルチュン氏は次のように書いていた。

これは歴史上初めての疫病禍ではない。最も大きいものでもなければ最後でもないだろう。歴史上、もっと大きな人的被害をもたらし、経済的、政治的に、より重大な打撃を与えた疫病禍が起きている。その後はどうなったのか? 人々は立ち止った所からまた歩み始めた。今回もそうなるだろう・・・・」。

まさしくその通りになったのではないかと思う。

トルコでは、コロナが既に過去のものとなり、大半の人たちがマスクを外したばかりか、ハグも復活したようである。

私は日本人同士のハグに何となく抵抗があるけれど、やはりトルコの日常にはハグが必要だろう。その様子にトルコの人々の温かさを感じることもあった。

一方、日本でも、先日のサッカー逆転勝利劇では、渋谷の大画面で観戦していた若者たちの多くがマスクを外して歓喜の声を上げていたそうである。

私は東京オリンピックでそんな光景が見られるのではないかと期待して裏切られたように思っていたけれど、ようやく日本も平常化に向けて歩み出したのではないだろうか?

とはいえ、先週の日曜日に飲み歩いた三宮の混雑した繁華街では、まだ多くの人たちがマスクをしたままだった。いち早く、トルコのように平常が戻ることを祈りたい。

ところで、日本以上に過激なコロナ対策を続けている中国はいったいどうなってしまったのだろう。

トルコには、欧米の経済に打撃を与えるため、有りもしないコロナの危機を口実に上海を封鎖したと論じる人もいた。

他にも、統制を強化するためにコロナを利用しているといった様々な陰謀説が取り沙汰されている。

確かに、ディズニーランドの封鎖などを見ると、コロナとは関係のない何か裏があるように思われてならない。

しかし、以下のYouTube動画で、上海のハロウィンの模様を見たら、別の観点で少々驚かされた。

雑踏の中をノーマスクで歩いている人たちも少なからず見受けられるのである。飲食の屋台でマスクをしないまま調理している人もいる。

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あれだけ国家が統制を強めているのに、未だ言うことを聞かない人たちがいるのは、なかなか中国らしいと思った。

「上に政策あれば下に対策あり」じゃないけれど、統制下にあっても自由に考えて行動する人たちが結構いるのだろう。あの社会で共産主義を実現するのは、やはり非常に難しいかもしれない。

これに比べて、私たち日本人の従順さはいったい何なのだ? 

かつて、「世界で最も共産主義に適しているのは日本」なんて言われたこともあるけれど、日本の自由とは何なのか考えたくなってしまう。

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イラン・イスラム体制の危機

1991年に、イズミルトルコ語学校に通っていた頃、東京大学を退官されてからトルコ研究に来られていた老先生と知り合った。

先生は長年にわたってイランの農村の研究に携わって来られた方だ。そのため、先生が大学を退官されてからトルコの研究を始めたことに不満を述べるイランの人たちもいたという。

こうして不満を顕わにしてしまうイランの人たちに比べると、トルコの人たちは非常に慎み深く見えたそうである。「トルコは中東のボンボンだねえ」と先生はその印象を語っていた。

先生からは、イランの状況についても色々お話しを伺っていたけれど、メモなど取っていなかったので、それぞれを明確に覚えているわけではない。

しかし、先生が「私の目が黒いうちに、イランでもう一度革命が起きる」と明言されていたのを思い出す。

先生は2001年にお亡くなりになって、それは叶わなかったけれど、私はその後も「いつか近いうちにその日は来る」と思い続けていた。

まさか、それから20年もイランのイスラム体制が持ち続けるとは考えられなかったのである。

90年代に、トルコや日本で知り合ったイラン人の友人の多くは飲酒を嗜んでいた。

以下の駄文にも記したように、1998年の3月、芦屋で催されたイランの新年を祝うバハイ教徒の集まりへ私と共に参加したイラン人の友人は「イランの正月は、皆、酒を飲んで祝います」と言い、土産に酒を買って行くべきだと主張して止まなかった。

イランには、数字は当てずっぽうだが、次のような話もあるそうだ。

「シャーの時代、イランには50のワイン醸造所があった。ホメイニの時代になって、それは5000に増えた」。

つまり、各々が家で密造酒を醸すようになったというのである。

また、キリスト教徒が密造酒で捕まっても罪は軽かったため、その多くはアルメニア人などのキリスト教徒であり、イランのイスラム教徒は知らない街へ引っ越したりすると、まずその街にキリスト教徒が何処にいるのか調べた、なんて話も聞いた。

こういった社会の実情に合っていないイスラムの体制は、いずれ覆されるはずだった。それが現在まで続いて来たのは、却って驚くべきことであるかもしれない。

しかし、その体制は、今、重大な危機を迎えているらしい。果たして、どうなることだろうか?

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トルコの若者たち

《2013年10月4日付け記事の後半部分を修正して再録》

イスタンブール郊外の保守的な街イエニドアンで暮らしていた2013年の9月、あるいは8月だったかもしれない。

未だ暑かった頃、夕方、カドゥキョイで乗ったバスが、イエニドアンに近づき、車内が空いてきたら、降車口を挟んで対面に座っている高校生ぐらいの女子2人と、その脇に立って、彼女たちと楽しそうに話し込んでいる男子の様子が良く見えるようになった。
窓際に座っている女子は、ノースリーブの服着て、頭にはもちろん何も被っていない。もう一人は、長袖を着込んでスカーフをしっかり被っていた。
低い声で話す彼女たちの会話に、「ジャポン(日本人)・・・」というのが聴こえたので、かなり注意して様子を覗っていると、男子が身体を屈めて、スカーフの女子に何か囁き、それをたしなめようとした彼女は、おそらく男子の頭を軽く叩こうとしたのだろう、パッと平手を振り下ろしたら、その拍子に男子が身体を起こそうとしたため、彼女の平手はものの見事に男子のほっぺたへ命中してしまった。
「ピシャリ」と大きな音がして、スカーフの彼女はちょっと悲鳴をあげ、それから3人で大爆笑。私も笑ってしまった。
それで、彼女たちとも目が合ってしまったので、「君たちは高校生なのか?」と尋ねてみた。
まず、男子が礼儀正しく挨拶してから、「はい、皆同じ高校です」と答え、ノースリーブの女子は、「すみません。不愉快だったでしょうか?」と私に訊いた。
「いや、君らは若いんだから良いよ」と爺臭く許してあげたら、スカーフの女子は「あのう、若い頃を懐かしんでいるんでしょうか?」なんて言う。そして、皆でまた大笑いした。

・・・・・

イスタンブールを離れて早や5年半、こんな光景がとても懐かしい。本当はメルハバ通信に、こういった見聞を書き続けたかったのだが、それも叶わなくなってしまった。

「トルコの若者たち」と改題してみたけれど、2013年当時、17歳ぐらいだった彼らは、今、26歳ぐらいになっているだろう。

ひょっとすると、以下の駄文でお伝えしたユーチューバーの青年のように世界を旅しているかもしれない。

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宗教よりも言語の繋がり?/イランの問題

モルドバ共和国のガガウズ人のルーツが何処にあるのかはともかく、トルコ共和国政府が自治区に学校を設立するなどして、ガガウズ人との連帯を進めているのは非常に興味深い。ガガウズ人はトルコ語に近い言語を話すものの、キリスト教徒であるからだ。

イスラムを統治原理としたオスマン帝国は国民を宗教・宗派によって区別したため、各々の言語よりも宗教・宗派の違いを重視していたという。

トルコ共和国成立後に、ギリシャとの間に行われた住民交換においても、カラマンルという「トルコ語母語とするギリシャ正教徒」はギリシャ人と見做されてギリシャへ送られ、ギリシャからは「ギリシャ語を母語とするイスラム教徒」がトルコ人として迎えられたそうである。カラマンルはガガウズ人との関連も指摘されている。

トルコ共和国は、イスラムによる統治を否定して、政教分離を掲げたものの、ギリシャ正教徒を始めとするキリスト教徒やユダヤ人は少数民族と認定されて明らかに区別された。

「宗務庁」はスンニー派イスラムを司る省庁であり、キリスト教はもちろん、アレヴィー派やシーア派のようなイスラムの異なる宗派も、その管轄には含まれていない。最近、ようやく設立されたアレヴィー派を司る官庁は、宗務庁ではなく文化観光省に所属している。

しかし、以下の駄文でもお伝えしたように、近年、スンニー派とアレヴィー派の対立は急速に解消されつつあり、アレヴィー派官庁の設立はエルドアン政権の功績というより、時代の必然ではなかったかと思う。

1991年に私が初めてトルコへ来た頃は、「イランでトルコ語に近いアゼルバイジャン語を話すタブリーズ辺りの人々もシーア派であるため、自身をイラン人と認識して、トルコ人に対する同胞意識は全くない」と言われていた。

ところが、2010年頃、トルコのクルド人の友人は、イランを旅行してタブリーズで大歓迎を受けたそうである。それは「トルコから来たトルコ語を話す人」として歓迎されたのであり、クルド人の民族性等とは全く関係のないものであったという。しかし、熱心なスンニー派ムスリムだった友人も「言葉の通じるタブリーズは楽しかった」と言い、その歓迎を喜んでいた。

タブリーズを含むイラン西北部地域は南アゼルバイジャンとも呼ばれ、住民の多くはアゼルバイジャン語を話すトルコ系のアゼリー人である。彼らが言葉の通じるトルコの人々に対して宗派の違いを乗り越え親近感を抱き始めたのは、イランにとって由々しき問題だろう。

一方、ソビエト崩壊後に独立したアゼルバイジャン共和国の人たちは、言語も宗派も変わらない同胞と言って良い。このため、独立以来、アゼルバイジャン共和国とイランの間には、非常に緊張した関係が続いているという。イラン政府は、世俗的なアゼルバイジャン共和国シーア派の宗教家を送り込み、人々の宗教的な熱情を煽ってイランに取り込もうとしているらしい。

イラン政府は、トルコ国内のシーア派の人々にも影響力を及ぼそうとしている。以下の駄文にも記したように、私は2014年にイスタンブールシーア派の祭典を見学して、その熱狂ぶりに驚いたけれど、今のトルコで、そういった宗教的な熱情が持続し、さらに拡大して行くとは到底思われない。これはアゼルバイジャンでも同様だろう。

インターネットによる通信手段が普及した社会で、人々は国境を越えて様々な地域の人たちと交流を持つ。実際にその地を訪れたり、ビジネスに繋げたりする例は年々急速に増えているはずだ。この場合、言葉が通じるのは大きなメリットに違いない。こうして、言語による繋がりは密になり、宗教的な関係は希薄になって行くのではないだろうか?

そのため、トルコ政府がキリスト教徒であるガガウズ人との連帯強化に努めているのは非常に興味深く思えた。

イスラムを統治原理にしたオスマン帝国から政教分離トルコ共和国への移行は1923年のことである。それは100年後の現在までを見通した先見の明に溢れる改革であったのかもしれない。

この共和国革命に比べると、1978年のイラン・イスラム革命とは、なんという時代錯誤の改革だったのか? 現在、イランでは、スカーフ着用等の宗教的な強制に抗議する人たちのデモが拡大して、大混乱に陥っているそうだ。

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