メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

宗教よりも言語の繋がり?/イランの問題

モルドバ共和国のガガウズ人のルーツが何処にあるのかはともかく、トルコ共和国政府が自治区に学校を設立するなどして、ガガウズ人との連帯を進めているのは非常に興味深い。ガガウズ人はトルコ語に近い言語を話すものの、キリスト教徒であるからだ。

イスラムを統治原理としたオスマン帝国は国民を宗教・宗派によって区別したため、各々の言語よりも宗教・宗派の違いを重視していたという。

トルコ共和国成立後に、ギリシャとの間に行われた住民交換においても、カラマンルという「トルコ語母語とするギリシャ正教徒」はギリシャ人と見做されてギリシャへ送られ、ギリシャからは「ギリシャ語を母語とするイスラム教徒」がトルコ人として迎えられたそうである。カラマンルはガガウズ人との関連も指摘されている。

トルコ共和国は、イスラムによる統治を否定して、政教分離を掲げたものの、ギリシャ正教徒を始めとするキリスト教徒やユダヤ人は少数民族と認定されて明らかに区別された。

「宗務庁」はスンニー派イスラムを司る省庁であり、キリスト教はもちろん、アレヴィー派やシーア派のようなイスラムの異なる宗派も、その管轄には含まれていない。最近、ようやく設立されたアレヴィー派を司る官庁は、宗務庁ではなく文化観光省に所属している。

しかし、以下の駄文でもお伝えしたように、近年、スンニー派とアレヴィー派の対立は急速に解消されつつあり、アレヴィー派官庁の設立はエルドアン政権の功績というより、時代の必然ではなかったかと思う。

1991年に私が初めてトルコへ来た頃は、「イランでトルコ語に近いアゼルバイジャン語を話すタブリーズ辺りの人々もシーア派であるため、自身をイラン人と認識して、トルコ人に対する同胞意識は全くない」と言われていた。

ところが、2010年頃、トルコのクルド人の友人は、イランを旅行してタブリーズで大歓迎を受けたそうである。それは「トルコから来たトルコ語を話す人」として歓迎されたのであり、クルド人の民族性等とは全く関係のないものであったという。しかし、熱心なスンニー派ムスリムだった友人も「言葉の通じるタブリーズは楽しかった」と言い、その歓迎を喜んでいた。

タブリーズを含むイラン西北部地域は南アゼルバイジャンとも呼ばれ、住民の多くはアゼルバイジャン語を話すトルコ系のアゼリー人である。彼らが言葉の通じるトルコの人々に対して宗派の違いを乗り越え親近感を抱き始めたのは、イランにとって由々しき問題だろう。

一方、ソビエト崩壊後に独立したアゼルバイジャン共和国の人たちは、言語も宗派も変わらない同胞と言って良い。このため、独立以来、アゼルバイジャン共和国とイランの間には、非常に緊張した関係が続いているという。イラン政府は、世俗的なアゼルバイジャン共和国シーア派の宗教家を送り込み、人々の宗教的な熱情を煽ってイランに取り込もうとしているらしい。

イラン政府は、トルコ国内のシーア派の人々にも影響力を及ぼそうとしている。以下の駄文にも記したように、私は2014年にイスタンブールシーア派の祭典を見学して、その熱狂ぶりに驚いたけれど、今のトルコで、そういった宗教的な熱情が持続し、さらに拡大して行くとは到底思われない。これはアゼルバイジャンでも同様だろう。

インターネットによる通信手段が普及した社会で、人々は国境を越えて様々な地域の人たちと交流を持つ。実際にその地を訪れたり、ビジネスに繋げたりする例は年々急速に増えているはずだ。この場合、言葉が通じるのは大きなメリットに違いない。こうして、言語による繋がりは密になり、宗教的な関係は希薄になって行くのではないだろうか?

そのため、トルコ政府がキリスト教徒であるガガウズ人との連帯強化に努めているのは非常に興味深く思えた。

イスラムを統治原理にしたオスマン帝国から政教分離トルコ共和国への移行は1923年のことである。それは100年後の現在までを見通した先見の明に溢れる改革であったのかもしれない。

この共和国革命に比べると、1978年のイラン・イスラム革命とは、なんという時代錯誤の改革だったのか? 現在、イランでは、スカーフ着用等の宗教的な強制に抗議する人たちのデモが拡大して、大混乱に陥っているそうだ。

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