メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

丸福珈琲のホットケーキ

昨日、難波へ出たので、久しぶりに丸福珈琲のホットケーキを食べて来た。

最近は、フワフワとか極厚とか色んなホットケーキが流行っているようだけれど、これは昔ながらのシンプルなホットケーキで、何だかホッとする味わいである。

かつて、神田須田町にあった万惣フルーツパーラーのホットケーキがこんな感じだったのではないかと思う。

子供の頃、何度か連れて行ってもらった万惣フルーツパーラーでは、カウンターの向こうの大きな銅板でたくさんのホットケーキが次々と焼き上げられていた。

しかし、成人してから一度食べに行ってみたところ、既にカウンターも大きな銅板も見当たらず、店は随分様変わりしていた。

ホットケーキは客席から見えない調理場で焼かれているようだった。その後、2011年に万惣フルーツパーラーは閉店している。

丸福珈琲でいつ頃からホットケーキが焼かれているのか解らないが、創業は昭和9年となっていて、昭和2年創業の万惣フルーツパーラーとそれほど変わらない。

そして、こちらは閉店どころか、着々と店舗を増やしており、既に全国展開といった勢いである。

しかも、難波本店の雰囲気は昔と殆ど変わっていないという。昨日もその庶民的な雰囲気の中で濃いめのコーヒーとホットケーキを堪能した。実に有難いことだと思う。





 

 

エアコンの災い?

9月に入ってからも暑い日が続いているけれど、朝夕は大分過ごしやすくなったように感じられる。

今日は空の様子も何となく秋めいて、日中の暑さもそれほどではなかった。

私は寒さよりも暑さに強く、「夏男」を自称してきたが、さすがに7月~8月の暑さは堪らなかった。5分~10分程度の積み下ろし作業でも汗びっしょりになってしまう。それを少しトラックを走らせてから、また繰り返すのである。

しかし、いくら暑くてもトラックでエアコンは使わなかった。窓を全開にして自然の風で涼んだ。渋滞していると運転しながら、また汗をかき続けたけれど・・・。

40年近く前、産廃のダンプをやっていた頃は、そうやって窓を全開にしているトラックなどそれほど珍しくもなかったのに、今やどの車もエアコンを入れているのか皆窓を閉め切っている。私はよっぽど目立っていただろう。

とはいえ、積み下ろし作業で汗かいて、車中のエアコンで冷やすのを繰り返したら、余計に堪えそうだ。健康にも良くないはずである。

最近、夏風邪を引いたりする人が増えたのは、このエアコンの所為であるような気がする。熱中症とも因果関係はあるかもしれない。エアコンが体温の調整機能に害を及ぼしてはいないだろうか?

私は家でも除湿だけにして冷房は使わない。お陰で体調も崩さず、ひと夏を乗り切ることができた。やはり何でも自然が一番じゃないかと思う。

今日(9月7日)の加古川。雲の様子が何となく秋らしい・・・。

8月4日の加古川。もの凄い夏の雲・・・。

8月4日の加古川。あの日も暑かった・・・。





 

 

日本でもトライリンガルが珍しくなくなる日?

この「工事現場の議論」という駄文に記した現場作業員のトルコ人青年は、トルコ語アラビア語クルド語のトライリンガルだった。

果たしてどのくらいのレベルでアラビア語クルド語を話すことができたのか私には解らないが、彼の出生地であるマルディン県等の南東部へ行けば、この手のトライリンガルはさほど珍しいものでもないらしい。

93年か94年、南東部を旅行した際、ウルファの近郊を案内してくれた地元の青年に、「あなたはクルド人ですか?」と尋ねたところ、「私は、トルコ語クルド語・アラビア語を全て同じレベルで話すことができるムスリムです」と返答されたこともあった。

トルコ語にはアラビア語ペルシャ語からの借用語が多く含まれているため、共通する単語はかなりあるかもしれないが、文法に基づく分類ではトルコ語が「ウラル・アルタイ語族」であるのに対し、アラビア語は「セム・ハム語族」、ペルシャ語系統のクルド語は「インド・アーリア語族」となっていて、この3つの言語を習得するのが容易とは思えない。

そのためか、彼らの中には、第4の言語として英語等を短期間に学んでしまう人も少なくないそうだ。非常に言語能力の高い人たちなのである。

しかし、大陸の国々でこういった例は他にいくらでも見られるのだろう。

中央アジアタジキスタンウズベキスタンには、タジク語・ウズベク語・ロシア語のトライリンガルも多く、タジク人なのかウズベク人なのか区別するのが難しかったりするらしい。周囲の状況に応じて、自身を「タジク人」、あるいは「ウズベク人」と言い分ける人もいるという。

おそらく、「国民国家」なるものが現れる前は、世界の何処へ行っても同じような状態だったのではないかと思う。

明治以前の日本も例外ではなかったかもしれない。「日本永代蔵」か何かで、ある人が複数の言葉を習得して商いに成功したという話を読んだ記憶がある。

この場合の言葉・言語とは、江戸語・関西語・鹿児島語・津軽語といったものだったに違いない。

それは現代の日本人が英語や中国語を習得して事業に成功するのと変わらなかったような気がする。

今後、日本でも、移民や彼らとのハーフが増えていけば、トライリンガルもそれほど珍しい存在ではなくなるかもしれない。これにわくわくするような期待感を覚える人は少なくないだろう。

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黄昏の日本?:少子化と移民の受け入れ

コロナの3年間で、日本の出生率はさらに低下してしまったという。マスクで顔が見えないのも若者たちの恋愛感情を妨げ、未婚が増える要因の一つになっているらしい。

確かに、マスクで顔が見えない相手には恋心も湧かないだろう。

日本で少子化の問題が騒がれ始めてから、既に20年以上過ぎていると思うが、これを阻止するための有効な対策は取られて来たのか? 

何だかそれほどの危機感さえ意識されて来なかったような気もする。

この歳(62歳)になるまで結婚はおろか恋愛も成し遂げることが出来なかった「戦犯」の1人である私が言っても始まらないが、現在の少子化はそれこそ「亡国」に至る道であるかもしれない。

少子化への対策としてロシアがソビエト時代の「母親英雄」なる制度を復活させたことが話題になっているけれど、果たしてどのくらいの効果が期待できるのだろう? 

トルコは、ジェンダー平等といった要素も含まれている「イスタンブール条約」からの撤退を表明した。

しかし、「女性に対する暴力」といった問題への取り組みは続けられるはずであり、撤退は少子化への影響を懸念したためではないかと思う。

男女の性差も無視した平等論には、少子化を加速させる恐れが指摘されているそうだ。

もちろん、撤退に「イスラム主義」などとの関係は考えられないが、以下の「世界の合計特殊出生率 国別ランキング」を見ると、上位を占めるアフリカの各国に続いて、パキスタンやエジプトのようなイスラム教の国々は高い出生率を維持している。

1992年にイズミルのエーゲ大学で知り合ったムスリムのナイジェリア人留学生は「イスラムの4人妻」も肯定しながら、「我々が欧米に圧力を加えられる唯一の手段は人口をどんどん増やすことである」と力説していた。そのナイジェリアの出生率は「5.25」で上位7傑に入っている。

意外にサウジアラビアを始めとする湾岸諸国の出生率が低い水準に留まっているけれど、これは経済的な豊かさと共に女性の高学歴化も進んだためであるかもしれない。

トルコはイスラム教の国々の中で、おそらく最も低い「2.04」という数字である。

西欧の各国はいずれも「2」を下回っている。フランスが「1.83」と高いのは、イスラム教徒の移民が多いためではないだろうか?

西欧並みの先進国であるイスラエルの高い出生率「2.90」には驚かされる。

これについて、以前、「イスラエルパレスチナ」という駄文に「イスラエルでは、女性も兵役に就いて国防に努めるが、出生率は高く、中東の中でも抜きん出ている。女性たちは『祖国のために子供を産む』と言うらしい。この国が地域の覇権を握る強者となったのは当然のことだろう。」などと記したが、イスラエルの事情に詳しい方から「出生率が高いのはユダヤ教厳格派に限られていて、一般的なイスラエル市民はこれを問題視している」というご指摘を頂いた。

どうやら、高い出生率には強い宗教の力も関わっているようだ。南米諸国の高い出生率にも強いカトリック信仰の影響があるかもしれない。(本家のイタリアは日本よりも低いけれど・・・)

いずれにせよ、今後、日本の出生率が飛躍的に高まるなんてことは全く期待できないだろう。

そうなると、若い人口を維持するためには移民を受け入れるより他にないのではないか? 

そのためにも、就学生の制度を改善しながら、日本の社会に適応できる移民を少しずつ増やして行くのが最善策であるように思える。

就学生の受け入れが進んでいた福岡では、ネパールやスリランカベトナム等々から来た就学生のアルバイトがいないコンビニなどなかったような印象さえ感じられた。

皆、達者な日本語で業務をこなしながら地域社会に溶け込んでいた。地元の人たちもそれに慣れて、なんの違和感もなく彼らと接していた。

トルコのように元々多民族でやって来た国は、現在、シリア難民の増加で少々もめているものの、移民の受け入れにそれほど抵抗を感じないだろう。

多民族帝国だった中国も少子高齢化が進めば、移民の受け入れを躊躇わないはずだ。

しかし、単一民族国家などと言われて来た日本も、多民族でやって行ける下地は既に充分備わっているのではないかと思う。

*写真は本文とあまり関係がないけれど、一昨日撮った黄昏の山陽電鉄踏切。山陽電鉄の沿線は黄昏過ぎていてちょっと寂しい。

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ジャパニーズ・ドリーム

《2018年7月29日付け記事の再録》

2016年の7月16日、トルコで軍事クーデターが市民らの抵抗によって阻止された事件を欧米各国や日本の報道は、まるでクーデターの成功を望んでいたかの如く冷ややかに伝えていたようである。
ところが、あの日、韓国のKBSニュースは、軍事クーデターの失敗を「民主的な国民の勝利」といったように熱狂的に報道していた。

翌日以降は、欧米各国に追従したのか、反エルドアン的な論調になってしまったけれど、あの日に限っては、国民とエルドアン大統領の勝利を称えていたのである。

あれは、軍事クーデターを忌み嫌う韓国人ジャーナリストらの条件反射のようなものだったのだろうか?

韓国では、500年の長きにわたった李氏朝鮮の時代を通して文人支配が徹底していたため、武人・軍人が尊敬されることは余りなかったという。
支配階級である文人たちは、ひたすら読書・勉学に励み、武芸を始めとする肉体的な活動によって汗をかくことを嫌っていたそうである。

そのため、真偽のほどは解らないが、代々支配階級に属していた家系の人たちは、骨格まで細くなっていたらしい。日本のお武家さんとはえらい違いじゃないかと思う。
しかし、それでは余りにも不健康だったような気がする。あくまでも武を卑しみ、文を崇めるのが「文明」であると言うのなら、そういう不健全なものが日本に伝わらなかったのは幸いだったかもしれない。

また、韓国で軍事クーデターが忌み嫌われた要因の一つには、下克上に対する徹底的な嫌悪もあるだろう。

下克上は、韓国語で「ハグックサン」と読み、言葉の響きまで、非常に嫌らしい感じがするという。
日本では、「時は戦国、下克上の世」なんて言ったりすると、なんとなくロマンを掻き立てられるような気持ちになってしまうから、これもえらい違いじゃないだろうか?
豊臣秀吉が韓国で嫌われたのは、侵略の張本人であったのはもちろんのこと、下克上で成り上がった半生も嫌悪されたそうだけれど、日本では、これが太閤人気の最も大きな要因の一つになっている。
今太閤と持て囃された田中角栄元首相もそうだし、裸一貫から成り上がった立志伝中の人物には、夢を感じる人も多いだろう。「ジャパニーズ・ドリーム」と言って良いかもしれない。
韓国では、現代財閥の創業者・鄭周永氏でさえ、あまり「コーリアン・ドリーム」などと持て囃されたことはなかったように思う。なんとも寂しい限りだ。

しかし、「ジャパニーズ・ドリーム」なんて大そうなこと言っても、これに「アメリカン・ドリーム」のようなスケールは感じられない。

なぜなら、「ジャパニーズ・ドリーム」を夢見ることができるのは、これまで殆ど「日本人」に限られてきたからである。
今、ネパールやベトナム等々から来た若者たちが、就学生という難しい立場のもとで、必死になって働き、日本の労働力不足を補ってくれている。

彼らが、「ジャパニーズ・ドリーム」を夢見ることができるようになれば、日本の未来は開けるだろう。私はそう信じている。



 

第一次世界大戦の捕虜が収容されていた姫路の景福寺

8月16日、姫路の方まで出かけて見た。15日に「多民族帝国の崩壊と国民国家の成立は何をもたらしたのか?」という駄文でお伝えした「さまよえるハプスブルク」に、第一次世界大戦中、ハプスブルク帝国の軍人兵士らが捕虜として「姫路の景福寺」に収容されていたという記述があったので、ちょっと見ておきたいと思ったのだ。

この軍人兵士たち150名は、1914年の11月に中国の青島で捕虜となり、翌年、加古川の青野原(現在は陸上自衛隊の駐屯地)に収容所が新設されるまで、景福寺に留められたそうである。

当時の日本は、国際法を順守して捕虜たちを丁重に扱ったため、彼らはそれほどの不満もなく過ごすことができたらしい。

しかし、1915年の5月、イタリアが協商国側について参戦すると、イタリア系の兵士らがドイツ系とクロアチア系の兵士らに襲われ袋叩きにされる事件があったという。

このイタリア系兵士らは、ハプスブルク帝国の領内だったダルマチア(現在はクロアチア領)、イストリア(現在はイタリア・クロアチアスロベニアの3国に跨る)、トリエステ(現在はイタリア領)の出身だった。こんな所に多民族帝国の難しさが見えるかもしれない。

景福寺までは姫路の駅から歩いて15分ぐらいだったのではないかと思う。あいにく盆の忙しい時期で住職さんがいらっしゃらなかったため、詳しいお話しは伺うことができなかったけれど、境内にある保育園の保育士さんも捕虜が収容されていた史実を御存知だった。その辺りでは結構知られている話なのかもしれない。

景福寺を後にすると、姫路城まで歩いてみたが、こちらは10分も掛からなかった。

ハプスブルク帝国軍の捕虜たちも姫路城を見に行ったそうである。景福寺に収容されて間もない12月のことだというから、まだ不穏な事件が起きる前で、楽しい物見遊山になったのだろう。

当時の姫路の地方紙は、彼らがマッチの軸やミカンにリンゴの食べかすを辺りに捨てたりせず、ゴミ箱に入れている様子を記して「やはり文明国民」と称賛したという。何だか「文明国」になろうと躍起になっていた当時の日本の雰囲気が伝わってくるようで興味深い。

しかし、これには彼らが軍人兵士であったため、軍の規律に従っていたという側面もあったのではないだろうか? 1990年だか91年に、東京へ寄港したトルコ海軍の巡洋艦の水兵らも東京の街中で非常に規律ある行動を見せていたのが思い出された。

捕虜の軍人が描いた景福寺:「さまよえるハプスブルク」より。

 

 

再び鹿児島へ

8月16日は、長期休暇の最終日だったので、姫路まで出かけてみた。

帰宅後、姫路での見聞等をブログでお伝えしようと駄文を記していたら、残り数行というところで、屋久島の姉から電話が掛かって来た。7時過ぎだった。

鹿児島の施設から緊急の連絡があり、7日以来、意識不明の状態が続いていた母の呼吸が既に停止したという。

私は直ぐに新幹線で鹿児島へ向かったが、屋久島からは船も飛行機も終わっているため、翌日にならなければ動けない。

この日、母を診断したお医者さんが、容態は悪化しているものの、今日明日にもという状況ではないと伝えて来ていたので、私たちにとっては、かなり急なことになってしまった。やはり、運命とは予期に反して訪れるものなのかもしれない。

その後の経過を詳しく記すつもりはないが、数日待たされる可能性もあると言われていた火葬も今日中に済み、実に簡単な葬儀を終えて、姉は骨壺を携えて屋久島へ帰り、私も今、高砂市の自宅でこれを書いている。うちは親戚付き合いが殆どなかったため、姉と私以外に参列者などいなかったのである。

私は明日から通常勤務に戻る。日給月給だから余り長く休んでいるわけにもいかない。それに、明日は汗をかいて動き回っていた方が気分的にも楽じゃないだろうか。そして、明日以降、またいつものような日常が繰り返されて行くのだと思う。