メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

第一次世界大戦の捕虜が収容されていた姫路の景福寺

8月16日、姫路の方まで出かけて見た。15日に「多民族帝国の崩壊と国民国家の成立は何をもたらしたのか?」という駄文でお伝えした「さまよえるハプスブルク」に、第一次世界大戦中、ハプスブルク帝国の軍人兵士らが捕虜として「姫路の景福寺」に収容されていたという記述があったので、ちょっと見ておきたいと思ったのだ。

この軍人兵士たち150名は、1914年の11月に中国の青島で捕虜となり、翌年、加古川の青野原(現在は陸上自衛隊の駐屯地)に収容所が新設されるまで、景福寺に留められたそうである。

当時の日本は、国際法を順守して捕虜たちを丁重に扱ったため、彼らはそれほどの不満もなく過ごすことができたらしい。

しかし、1915年の5月、イタリアが協商国側について参戦すると、イタリア系の兵士らがドイツ系とクロアチア系の兵士らに襲われ袋叩きにされる事件があったという。

このイタリア系兵士らは、ハプスブルク帝国の領内だったダルマチア(現在はクロアチア領)、イストリア(現在はイタリア・クロアチアスロベニアの3国に跨る)、トリエステ(現在はイタリア領)の出身だった。こんな所に多民族帝国の難しさが見えるかもしれない。

景福寺までは姫路の駅から歩いて15分ぐらいだったのではないかと思う。あいにく盆の忙しい時期で住職さんがいらっしゃらなかったため、詳しいお話しは伺うことができなかったけれど、境内にある保育園の保育士さんも捕虜が収容されていた史実を御存知だった。その辺りでは結構知られている話なのかもしれない。

景福寺を後にすると、姫路城まで歩いてみたが、こちらは10分も掛からなかった。

ハプスブルク帝国軍の捕虜たちも姫路城を見に行ったそうである。景福寺に収容されて間もない12月のことだというから、まだ不穏な事件が起きる前で、楽しい物見遊山になったのだろう。

当時の姫路の地方紙は、彼らがマッチの軸やミカンにリンゴの食べかすを辺りに捨てたりせず、ゴミ箱に入れている様子を記して「やはり文明国民」と称賛したという。何だか「文明国」になろうと躍起になっていた当時の日本の雰囲気が伝わってくるようで興味深い。

しかし、これには彼らが軍人兵士であったため、軍の規律に従っていたという側面もあったのではないだろうか? 1990年だか91年に、東京へ寄港したトルコ海軍の巡洋艦の水兵らも東京の街中で非常に規律ある行動を見せていたのが思い出された。

捕虜の軍人が描いた景福寺:「さまよえるハプスブルク」より。