メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

「イルマーレ」と「This never happened before」

イルマーレ」という米国の映画を、私は2008~9年頃にイスタンブールからイズミルへ向かう長距離バスの中で観た。

現在と過去が交差する筋立ての面白さに引き寄せられて暫く観ていると、劇中にポール・マッカートニーの歌声が流れて来たのである。

初めて聴く知らない曲だったが、ポール・マッカートニーの声であることは直ぐに解った。メロディーも直ぐ耳に馴染んだ。ポール・マッカートニーらしい美しさが感じられる曲だった。

この「This never happened before」という曲の作用もあって、映画の印象は私の脳裏に刻み込まれたのだろう。

その後、元になった韓国映画の「イルマーレ」を観て、こちらの方が遥かに名作だとは思ったけれど、ポール・マッカートニーの歌声と共に米国版「イルマーレ」の印象も色褪せることはなかった。

ところが、先日、米国版「イルマーレ」を再び視聴して驚いた。劇中、何度も聴いたと思っていたポール・マッカートニーの歌が流れたのは、中間の部分とエンディングの2回だけだったのである。

映画の方も、韓国版「イルマーレ」に比べたら、なんともお粗末な駄作であるように感じられた。

どうやら、米国版「イルマーレ」の良い印象は、ひたすらポール・マッカートニーの歌によって支えられていたらしい。

「This never happened before」は2003年の作品で、当時、ポール・マッカートニーは既に61歳になっていたはずだが、あの瑞々しさはいったい何なのだろう?

とはいえ、私も今61歳で、いまだに瑞々しいというか、馬鹿々々しい若さを保っているから、それほど驚く必要はないかもしれない。

ただ、私の馬鹿々々しい若さには何の創造力も備わっていないところが悲しくなる。

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「トルコのピラフ」と「イランのチェロウ」

このYouTube動画では、トルコ人の家族とイラン人の家族がイスタンブールのイラン料理店で夕食を楽しんでいる。

食卓にはイランの人たちが愛してやまないチェロウも並んでいるけれど、トルコ人の面々からは「味が無い」なんて声も聞かれて、それほど良い評価を得られていない。

どうやら、出汁と油脂を使って調理されているトルコのピラフ(pilav)と比べてしまうため、チェロウは「味が無い」と感じられるらしい。

「私たちのピラフは味をつけているが、これは米そのものが強調されているようだ」というトルコ人女性の評価は、なかなか的を射ているのではないかと思う。

しかし、その米の風味も、トルコとイランでは大分異なっているはずだ。トルコのピラフに使われている米はジャポニカ種に近く、出汁や油脂を使わずにそのまま炊けば、日本のご飯のようになる。

一方、イランのチェロウも水だけで調理しているけれど、インディカ種の「香り米」を用いるため、仕上がりと風味は大きく異なる。

かつて、日本が米不足に陥った際、輸入されたインディカ種のタイ米は、それを日本のご飯のように炊いた人たちから「不味い」と酷評されていた。

しかし、日本の米とは異なる全く別の食材であると思って調理していれば、それなりに楽しめたと思う。

日本の「ご飯」、イランの「チェロウ」、トルコの「ピラフ」は皆それぞれ別の料理で、それぞれに異なる味わいがあるのに、同じご飯、あるいはピラフだと思って食べると、ちょっと裏切られたように感じてしまうのかもしれない。

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シュークリームの誘惑

ゆるい糖質制限を続けているので、麺類やご飯は滅多に食べない。食べる時も必ず半ライスにしている。

もちろん菓子類は極力避けているが、もともと甘いものは大好きだから、その誘惑を断つのに苦労している。

それでも、誘惑の強さはトルコに居た頃に比べたら大分減ったかもしれない。

トルコで街を歩けば、バクラヴァやキュネフェといった悪魔のように美味い菓子と遭遇する機会が必然の如く訪れてしまう。その悪魔の誘惑をかわしながら街を歩いていたのである。

日本に帰って来てからは、豆大福とシュークリームの誘惑が抑えがたい。こちらへ越して来たら、それに「御座候」も追加された。

昨日は、難波で飲んだ帰りに、大阪駅の前で待ち構えていたビアードパパのシュークリームにつかまってしまった。

あのシュークリームはトルコでも受けるに違いない、と思って、先ほどネットで検索してみたら、なんと2013年にイスタンブールイズミルで開店していた事実が明らかになった。

しかし、いずれも既に閉店しているらしい。なんで巧く行かなかったのだろう? ひょっとすると、トルコの人たちにとっては、少し甘味が物足りなかったのかもしれない。

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難波のガチ居酒屋!

昨夕、大阪へ出て、友人と一杯やってきた。

当初は、「島之内のガチ中華!」で、四川に続いて上海を旅するつもりだったが、店頭に掲げられた「酒類は提供できません」の張り紙を見て諦めた。

「緊急事態宣言」に応じた処置のようだけれど、私は迂闊にも緊急事態のことなどすっかり忘れていた。

仕方なく、場所を変えて難波の方へ行ってみたところ、辺りはまるで別天地の様相を呈していた。

多くの居酒屋が営業中で、どの店も大勢の客で賑わっている。緊急事態はここでも忘れ去られているらしい。

島之内の中国や韓国の人たちは、日本人以上に気を使っているのだろう。福岡でも、ネパール人の就学生たちは色々細かいところにまで気を配っていた。自分たちの立場が弱いことを常に意識していたからだと思う。

おそらく、中国や韓国の人たちの意識もそれと変わらない。島之内は、周囲の日本人がどういう反応を見せるのか恐れて、ひっそり息をひそめているかのようだった。

一方、難波で店をやっている人たちも、周囲の反応を全く気にしていないわけじゃないだろう。しかし、既に死活問題の域に達しているので、「背に腹は代えられない」ということなのかもしれない。

お陰で、私たちは楽しく飲んで語り合った。有難いことだと思う。

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トルコライス!

昨日、夜勤明けに大倉山公園近くの洋食店で「トルコライス」を食べて来た。

この洋食店は、店名そのものが「神戸トルコライス」であり、メニューもトルコライスに特化されている。

先月、バスで店の前を通った際に気が付いたけれど、その大きな「トルコライス」の看板は、前を通れば誰もが気が付くはずだ。

あれほど「トルコ」が目立っている場所が他に何処かあるだろうか? 何だか表彰したくなるほど嬉しい。

もっとも、お店の人たちは、国の「トルコ」を意識しているわけじゃなくて、長崎が発祥の地とされる「トルコライス」に拘っているだけのようである。

そもそも、トルコライスはトンカツが入っているから、トルコではまずポピュラーに成り得ない料理だろう。

トルコライスを作り出した長崎の洋食店の方は「洋の東西の味覚が合わさっている」という意味で「トルコ」と名付けたらしい。

「神戸トルコライス」のメニューには、「かつトルコ」と「えびトルコ」の2つのトルコライスがある。

昨日はトルコでもポピュラーになりそうな「えびトルコ」を食べてみたけれど、これが実に美味しかった。トルコの人たちにも喜んでもらえるのではないかと思う。私は次回に「かつトルコ」の方も是非味わってみたくなった。

国の「トルコ」を意識している私にとっては、お店の人たちが気さくで親しみやすい所もなかなか「トルコ」らしいと感じられた。

それから、「えび」と「かつ」を合わせた凄いボリュームのミックスメニューもあり、あれを毎日食べていれば、トルコの人たちに多い「三段腹」になってしまいそうで、それがまさしく「トルコライス」の所以であるかもしれない・・・。

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「恐ろしい宗教」

《2016年10月15日の記事を再録》

イスラム教徒・ムスリムと言えば、何だか、まるで価値体系の異なる宗教的な世界で生きている人々みたいな雰囲気で語られたりしているけれど、トルコでイスラム教徒の人たちと接している限り、これが実際の様相を伝えているとは、とても考えられない。
もちろん、時代錯誤とも思える頑なな信仰心で生活の隅々を律している人もいるが、そういう人は、日本にも、何処の国の社会にも、必ず一定の割合で存在しているだろう。
また、それほど頑なではなくても、日本や韓国のプロテスタントの友人たちを見ていると、彼らと神との間には個人的な強い絆が感じられてしまう。

イスラムの場合、個人と神の間に社会が介在しているような気がして、もともとプロテスタントの強い信仰とは、少し趣の異なる宗教なのかもしれない。

人々は、その時々の社会の要件に合わせようとするため、プロテスタントよりも、却って非常に世俗的な宗教じゃないかと思ったりする。

プロテスタントカール・ルイス選手は、自分に才能を授けたのは神であると信じて、引退するまで、自己管理と鍛錬を怠らなかったそうだ。アメリカの超一流アスリートには、こんな人が少なくないらしい。
モハメド・アリは、凄い試合をする時と、そうでもない時の差があり過ぎて、体調管理に疑問が持たれていたけれど、彼はプロテスタントじゃなかった。

トルコのアスリートたちも、アメリカに比べて、全般的に選手寿命が短く、やはり自己管理はそれほどでもないように思えてしまう。
トルコにも選手寿命の長いアスリートがいないわけではない。例えば、サッカーのハーカン・シュクル選手は、長期間にわたって第一線で活躍し、その真摯な姿勢には、強い信仰心が感じられた。しかし、ギュレン教団のメンバーである彼の信仰は、一般のイスラム教徒と同じではなかったかもしれない。
今日(10月14日)のカラル紙のコラムで、エティエン・マフチュプヤン氏は、ギュレン教団について、「この国で、最も長期間にわたって計画的且つ合理的に考え、自分たちの目的に向かって、強い意識で邁進できる組織だった」と記しながら、国家も含めて、それが出来ないトルコの各組織に猛省を促していた。
ギュレン教団には、プロテスタント的な要素もあったのだろうか?

それはさておき、プロテスタントの信仰は、道徳的な面ばかりでなく、厳しい自己修養を求めているような気がする。これには、武士道と相通じるところがあるらしい。
儒教は、為政者に修養を求めているものの、一般の人々に対しては、「之に由らしむべし、之を知らしむべからず」だから、単なる道徳律に過ぎないのだろう。
イスラムも、これに近いのではないかと思う。安寧秩序ばかり求めていて、自己修養には厳しくなさそうだ。「持ちつ持たれつ」といった美徳が強調されるあまり、「私立」も妨げられてしまう・・・。

 だから、プロテスタントの人たちが、イスラムを「だらしない宗教」と言って見下すのであれば、それは解らなくもないが、危険視するのは理解に苦しむ。「危なくて恐ろしいのは貴方たちの宗教だよ」と言いたくなる。17世紀に、ピューリタンの人々は、未知の新大陸へ向かって、大西洋の荒波を乗り越えていった。あれは感動的であると同時に、ちょっと恐ろしい。イスラム教徒の多くは、もっと現実的な利益が見えなければ、危険を冒さないのではないか。
人類の発展に大きく貢献したプロテスタントの精神は、もちろん称賛に価するけれど、一歩引いて、イスラム的な美徳にも目を向けてくれたら有難いと思う。 

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「イスラムはどういう宗教なのか?」

《2019年11月1日の記事を再録》

日本でイスラムの社会について解説された記事を読んでみると、イスラムの教義から説き起こしている例が少なくない。

 しかし、トルコでは、敬虔な信者であっても、教義を事細かに知っている人はそれほどいないだろう。

 その多くは、礼拝のやり方や飲食などの禁忌について大まかな知識を有しているだけで、トルコ語の宗教書を熱心に読む人も少ないと思う。知識と言っても、それは冠婚葬祭等にも関わる伝統として受け継がれて来たものが大部分であるはずだ。

 そもそも、アラビア語母語とする人たちを除けば、殆どのトルコ人アラビア語で記されたコーランが読めるわけではない。

 それに、母語アラビア語でもアラビア文字を読めない人が多いから、大学の神学部でも出ていない限り、コーランを読みこなせる人はいないと言っても良さそうな気がする。

その神学部も、現在は女学生が大半を占めているという。産業化の時代に神学部など卒業しても就職に困るためらしい。

イスラムの教義をいくら研究しても、産業化されたトルコの社会を知る糸口はあまり得られないだろう。

 また、信者ではない一般の日本の読者を対象にした記事であっても、イスラム教の成立が「神の啓示云々」で済まされていて、背景について分かり易い説明を読んだ覚えがない。

 私のように何の信心もない人間にしてみれば、宗教は誰かによって作り上げられた体系に過ぎない。どういう人たちがどういう目的で作ったのか解き明かしてもらいたいのだ。

 そして、これを考えると、私の僅かな知識でも、イスラム教とキリスト教はその出発点が違っていたように感じられる。

キリスト教が既存の体制への抵抗として生まれたのに対し、イスラムは社会の統治者だったムハンマド、あるいはその周辺にいた人たちが作り上げた体系ではなかっただろうか?

 これにイスラム教を貶める意図はない。信仰のない俗人にとって、統治者として成功を収めたムハンマドの教えは参考に値するし、立身出世を遂げたムハンマドは数ある「聖人」の中で珍しい常識人だったような気がする。

 ブッダは世捨て人、イエスはちょっと過激な運動家に例えられるかもしれない。いずれにしても、あまりお近づきになりたくない類の人物であると思う。友人として付き合うなら、やはりムハンマドだろう。

 ムハンマドはその教えも、当時のアラビアの社会の実情に合わせて説いていたらしい。だから、イスラムの教えを現代に活かそうとするなら、現代の社会の実情に合わせなければならないと主張するイスラム学者がトルコにはいる。

 というより、以下の宗務庁長官の話を聞けば、これが主流ではないだろうか?

時代に合わせて政教分離を図ったトルコのイスラムが、かえって本質に近いかもしれない。なにしろ、オスマン帝国の皇帝はカリフを兼ねていたわけで、イスラムの盟主と言って良い存在だったのである。

このイスラムが過激で危険な宗教であるかのように喧伝されているのだから堪らない。

イスラム教は、神と人の間に社会が介在しているような気がして、キリスト教プロテスタントに比べたら、何だか俗っぽい宗教のように感じてしまう。

 実際、プロテスタントの信徒である日本人の友人は、イスラムを「お気楽な宗教」と評していた。

 日本語を少し解するトルコ人の友人によれば、イスラムは「頑張らない宗教」だそうである。実に巧い表現じゃないかと思う。

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