メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

シーア派の祭典アーシューラー

今日は、イスラム暦のムハレム月の10日目「アーシューラー」の日に当たるそうだ。

西暦680年のこの日に、イマームフサインが「カルバラーの戦い」で殺害されたため、シーア派の人々は「フサインの殉教」を哀悼して盛大な行事を催すようになったという。

2014年の11月3日、当時、イスタンブールに住んでいた私は、このアーシューラーの行事を見学するため、シーア派の人々が多数居住するハルカルの街を訪れていた。

その時の見聞は以下の駄文に記している。

この日、街を案内してくれたシーア派の青年は、新しいモスクの建設現場にも私を連れて行ったが、工事は中断されていて、未だ再開の目処も立っていないという説明だった。

完成すれば、シーア派の文化センターも兼ねる大規模なモスクになるけれど、AKP政権との間に齟齬が生じたため、工事を差し止められていると青年は政権に対する不満を述べていた。

しかし、アーシューラーの行事に、ハメネイ師の代理人が来ていたくらいだから、文化センターにもイランの影響はあるように思われた。トルコの政府としては、そう簡単に認められなかったのだろう。

また、青年も含めて、トルコのシーア派の人々の大半は野党CHPを支持しているようだから、その辺りにも問題は潜んでいたかもしれない。

今日、このシーア派のモスク・文化センター「Zeynebiye Camii ve Kültür Merkezi」の現状を調べてみようとネットで検索してみたら、以下のような動画が見つかった。

撮影されたのは昨年の5月頃らしいが、いよいよ完成間近である様子がうかがえる。アーシュラーの行事に合わせて、今日か明日にでもオープニングを迎えるなんてこともあるだろうか?

そして、オープニングには政府の要人も訪れるのか? 等々、色んなことが気になるけれど、何よりも、この目でモスクの現状を確かめてみたい。果たして、それはいつになるのだろう?

*写真は私が撮影した2014年11月3日当時のモスクの工事現場とアーシューラーの行事の模様。

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アフガニスタンとトルコの相違

トルコ軍はNATOの一員としてカーブルの空港に1200人ほどの将兵を駐屯させているという。

トルコのメディアでは、7月10日の段階で、タリバンの勝利を確実と見做して、その後の展開を占う討論番組が組まれていたりした。

以下の動画では、メテ・ヤラルという退役軍人が持論を説明しているけれど、「武力衝突は絶対に避けなければならない」「アフガニスタン側の了解がない限り駐屯を続けるべきではない」という点が特に強調されている。

ヤラル氏は、この時点で、「勝利を確実にしたタリバンは国際社会からの認知を求めるはずだ」として、タリバンが現実的な路線に転換を図るだろうという見方を示している。

しかし、どのくらい現実的になるのかについては明らかにしていない。あれから1か月以上経過し、米軍が退きタリバンが政権を掌握した現在も、トルコではタリバンの方向性について議論が続けられており、まだ明確に今後を予想する識者はいないようだ。

それでも、多くの識者が「タリバンの現実路線にそれほど期待していない」という点では一致しているように思われる。

5年前、「シリアの新しい体制は“政教分離主義”に基づかなければならない」と論じていたチャヴシュオール外相も、おそらくタリバンアフガニスタンには政教分離を求めないのではないだろうか。

トルコがアフガニスタンや中東諸国と明らかに異なっているのは、その産業構造にも見られるかもしれない。

イスタンブールからアンカラへ向かう途中、イズミット湾の辺りで工業地帯が延々と続くのを見て「トルコって結構産業化が進んでいるんですね」と驚く日本の人たちに私は驚いていたけれど、トルコは既に工業国と言っても良いと思う。

サウジアラビアも統計上は工業生産の比重が高いことになっているものの、あれは石油関連の生産が殆どではないのか。しかも、自分たちの技術で生産しているわけじゃない。

実際は、石油という地下資源に依存する非常に歪な産業構造であり、それがあの歪なイスラム思想にも影響しているように思われてならない。

サウジアラビアは、農業国という段階を経ないまま工業国になってしまった稀有な例じゃないだろうか。

アフガニスタンも乾燥した山岳地帯が国土の大半を占めていて、農業生産力の増強は非常に難しいという。工業化は尚更困難であるに違いない。果たして、今後どうやって経済を発展させて行くのだろう?(地下資源は豊かであるそうだが・・・)

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トルコの世俗化

上記のユーチューバーの若いトルコ人女性について、私は「世俗的」と表現したけれど、スカーフを被っている母親と姉の様子を見ると、家族の保守的な傾向は明らかであり、彼女自身のイスラム信仰もトルコの標準からすれば、わりと熱心な部類に属しているかもしれない。

トルコでは、既に宗教が「社会の問題」ではなく「個人の問題」になっている。

2016年頃、それまで「中央アジアから来たトルコ人」を自称し、無宗教を主張していた友人が、平然と「トルコ人というのはオスマン帝国イスラム教徒のことだよ」と言い始め、自分たちの宗教も認めてしまったので驚いたけれど、これは決してイスラム化を意味していないと思う。

かえって、無宗教を主張していた頃の友人は、あまり「世俗的」でなかったような気もする。

イスラム政教分離主義の対立という社会問題の中で、彼は政教分離主義者であることを絶えず強調していた。対立の解消と共に、その緊張が解かれて楽になったのではないだろうか?

そもそも、宗教を認めたと言っても、それは「酒を飲んで礼拝をしないイスラム」なのである。

ユーチューバーの女性に代表される新しい世代は、もともとそんな対立や緊張とは無縁だっただろう。その辺りがとても「世俗的」であるように感じられる。

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何故、欧米は少数民族など他国の問題に干渉したがるのか?

第一次世界大戦以降、欧米は「民族自決」を提唱して、他国の少数民族の問題に干渉するようになったという。

オスマン帝国第一次世界大戦後に崩壊し、トルコ共和国という民族国家に生まれ変わったが、欧米はクルド人をトルコ国内の少数民族であると認定して、その問題に干渉し続けた。

「トルコのクルド人」は日本でも研究の対象になり、多くの本が出版されている。私もこの問題には少なからず関心があった。

ところが、トルコで暮らし始めてから、トルコの人たちの「民族」に対する感覚が、我々とはどうも大きく異なっていることに気がついた。

まず、各々の出自に関して、驚くほど拘りがない。例えば、「私の父方はアルバニア人、母方はグルジア人で私はトルコ人です」と言う人がいても当たり前に受け入れられているし、そんな人は珍しくもない。エルドアン大統領も母方はグルジア人だそうである。

つまり、「トルコ人」というのがエスニックによる民族ではないことを人々はもともと認めていたのではないかと思う。

今は少し変わってきたかもしれないが、日本で「私の父は中国人、母は韓国人、私は日本人です」と自己紹介する人がいたら、大概、『ええっ?』と訝しげに見られてしまっただろう。

近年、トルコでも民族主義が盛んになって来たと言われているものの、エスニック的な主張が強くなったわけではない。却って、エスニック的な拘りは減って来たように思える。

2016年頃になって、それまで「中央アジアから来たトルコ人」を自称し、無宗教を主張していた友人が、平然と「トルコ人というのはオスマン帝国イスラム教徒のことだよ」と言い始め、自分たちの宗教も認めてしまったのには驚いた。

もっとも、彼が「酒を飲み礼拝はしないイスラム教徒」である点に変わりはなく、アイデンティティの要素が多少変わっただけらしい。

トルコで盛んになって来た民族主義は、「我々は皆、オスマン帝国イスラム教徒である」という民族主義であるかもしれない。この「オスマン帝国イスラム教徒」には、もちろんクルド人も含まれる。

そもそも、現代トルコ語で民族を表す「ミレット」という言葉は、オスマン帝国時代、「イスラムのミレット」というように宗教の属性を表す言葉だったそうである。

こうした知識と共に、トルコの「民族」がエスニックに由来するものではないことを私は理解するに至ったものの、「クルド問題」に関してはなかなか問題の有無を疑うまでには至らなかった。

しかし、最近はこのクルド問題も、オスマン帝国の末期以来、欧米によって作り出され扇動されてきた「問題」ではなかったかと疑っている。

イスラムの「問題」に関しても、政教分離主義的なトルコの知識人が、「私たちは西欧で提起されたイスラム問題にふりまわされていたかもしれない」と述べていた。

産業化・都市化の中で自然に解消されるような問題を、西欧の人たちはイスラムの特殊性に結び付けて論じ、トルコの知識人もこれに倣ってしまったというのである。

 民族問題でも、西欧の議論をそのままトルコに持ち込んでいたようなところがあったかもしれない。

ソビエトも、西欧のマルクス主義由来の民族自決論により「ウクライナ社会主義共和国」等々を作り、これは現在のロシアにとっても大きな問題になってしまっているが、ロシア人の民族の感覚も、西欧のそれとは少し違っていたような気がする。

ロマノフ朝にはポーランド系やドイツ系など様々な出自の貴族がいたようだ。「水師営の会見」”で有名なステッセル将軍はドイツ系だったという。そもそもエカテリーナ女帝からしてドイツ人だった。

民族自決を掲げたソビエトの独裁者スターリングルジア人である。私たちは韓国人の独裁者が権力を掌握した「日本」を想像できるだろうか?

やはり共産主義を導入した中国も少数民族の問題を決して無視しては来なかった。

1997年、大阪に住んでいた頃、アルバイトの職場に上海出身のおばさんがいて、ある時、中国語で嬉しそうに話してから電話を切ると、「良かったわ。上海の友人が少数民族だったのよ」と言ったのである。

何事かと思ったら、中国では少数民族の場合、大学への入学が楽になる制度があるため、大学進学を控える子供のいる親は、自分たちの出自を調べてみるらしい。2~3世代前でも少数民族であることが明らかにされれば、その対象になるからだという。おばさんの友人は有難いことに少数民族だったそうだ。

これも日本では考えられない。出自を調べて「日本人じゃなかった」と喜ぶ人が何処にいるだろう?

その友人がどういう少数民族だったのか聞き洩らしたけれど、例えば、満州族などは、かつての支配階級だったため、平均的な教育水準が、もともと漢族より高かったらしい。その満州族も対象になっているのだとしたら、なんだかお粗末な制度ではないかと思ってしまう。

満州族は、支配民族が少数民族を同化させるという類型にも当てはまっていない。満州族は征服して支配した民族に同化してしまった。

それから、少数民族に関しては、「一人っ子政策」の適用も二人までに緩和されていたそうだ。結構、少数民族の問題には熱心に取り組んで来たのである。

一人っ子政策」は、共産主義と同様、科学的な計算に基づき、「人口爆発」を抑えるために始めたらしいけれど、その後、インドが産業化・都市化に伴って、自然と出生率を下げて行ったのを見れば、中国もあれほど無理をしなくても良かったような気がする。

中国は間もなく人口でインドに抜かれてしまうばかりか、極端な高齢化の危機にも直面している。「一人っ子政策」などやるべきではなかった。

例えば、中国の国家が行なってきた重大な人権侵害の一つは、この「一人っ子政策」じゃないだろうか? 

以下の駄文に登場する福建省の友人は、子供を2人作ってしまった為、警察に呼ばれて強制的にパイプカットされてしまったそうだ。しかし、人権にうるさい西欧が「一人っ子政策」を非難したという話も余り聞いていない。どうやら、自分たちの都合次第で何も言わなくなるらしい。

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トルコの新しい世代

トルコの一般市民の間でも「ユーチューバー」は増えているらしい。

先日、そういったユーチューバーによる以下のYouTube動画を視聴して、なかなか興味深いものを感じた。

ユーチューバーの若い女性が、婚約者であるイラン人の青年とその母親、そして自分の家族を伴って、イスタンブールはイスティックラル通りの近くにあるイラン料理の店に行って夕食を楽しんでいる。

この女性はスカーフを被っていないものの、母親と姉はしっかり被っていて、結構保守的な家族であることがうかがえる。

一方、婚約者のイラン人青年の母親は何も被っておらず、至ってモダンな雰囲気である。青年は流暢なトルコ語を話しているから、おそらくトルコで生活していて、彼女ともトルコで知り合ったのではないかと思う。

母親が彼女の家族と会うためにトルコを訪れていたのか、もともとトルコに住んでいるのか、その辺は良く解らない。トルコ語は巧く話せないようだが、聞き取りは出来ているみたいなので、ひょっとするとアゼリー系のイラン人であるかもしれない。

トルコでは、もう随分前から、保守的な家族の娘と政教分離主義的な家族の青年が結婚したりするのは珍しいことじゃなくなっている。そのため、「保守的な家族」であるとか「政教分離主義的な家族」といった区分けは余り意味を成さなくなってきた。

彼女と婚約者は、さらにもう一つの垣根も取り払って行く過程にいるのだろうか?

シーア派とかスンニー派とか、もう誰も気にしていないかもしれない。少なくとも、彼女たちがそれを問題にしている様子はまったく見られない。

以下の動画では、やはりイスティックラル通りの近くにあるリモンルというカフェへ婚約者と出かけているけれど、このリモンルはとても解り難い場所にあって、かつてはちょっとした隠れ家的な雰囲気もあり、客層も殆ど政教分離主義的でモダンな若者たちに限られていたのではないか。

ところが、動画を見ると、スカーフをしっかり被った女性の姿も見られたりする。こういう区分けも、もう意味を成していないのだろう。そして、区分けを規定していたイデオロギーも・・・。

この世俗的で現実的な若い世代がトルコの発展を支えて行くことになるのだと思う。


日本と韓国の不幸な関係

江戸時代、日本は朝鮮とそれほど密接とは言えないまでも正常な外交関係を維持していたようだ。朝鮮通信使の往来も良く知られている。

17世紀に朝鮮へ漂着して13年間抑留されたオランダ人ヘンドリック・ハメルの記した「朝鮮幽囚記」を読むと、当時の日朝外交の有様も多少解って来る。

ハメルらは、オランダと外交関係があった日本を目指して航海中に朝鮮へ漂着し、13年の抑留生活を経たのち、脱走を図って日本で保護されたこともあり、日本には好意的で、朝鮮を辛辣な言い方で貶している。

そのため、日本の一部の人たちは、朝鮮が貶された部分を良く取り上げているけれど、それよりも日朝の外交が正常に機能していた点にもっと注目しても良いのではないかと思う。

ハメルは長崎の出島に連れて来られてから、役人が何度も同じ質問を繰り返して、なかなか解放してくれなかったことにも文句をつけているが、どうやら幕府はそうやって時間を稼ぎながら、ハメルらの陳述が正しいかどうか朝鮮政府に確認していたらしい。

その後、朝鮮政府は、幕府の要請に応じて、脱走出来ず朝鮮に留まっていたオランダ人8人の内7人を日本へ引き渡したという。1人は朝鮮での残留を希望したため引き渡されなかったそうだ。ハメルの記述ほど朝鮮における抑留生活は酷いものじゃなかったのかもしれない。

しかし、こういった日朝の外交関係は明治維新後に大きな危機を迎えてしまう。発端は、明治新政府が送った国書の受け取りを朝鮮側が拒否したことにある。

その主な要因は、国書に「皇」と記されているのを朝鮮政府が認めなかったからだと言われているけれど、もともと外交関係のあった幕府をクーデター同然のやり方で倒した明治新政府に対して、朝鮮が不信感を抱いていたような所はなかったのだろうか?

今でも韓国は、その儒教思想により、クーデターや下剋上による政変を忌み嫌っている。

2016年7月15日、トルコでクーデター事件が発生した際も、当日に限り韓国のKBS放送は、クーデターを阻止したエルドアン大統領と民衆の勝利を歓呼して伝えていた。

そもそも、幕府が中心となって明治の近代化が進められていたら、外交文書にも以前通りの気遣いを見せて、朝鮮側の反感を買うこともなかっただろう。

幕府には近代化を推し進める人材も揃っていたのではないか。福沢諭吉渋沢栄一も幕府に仕えていたのである。

勝海舟には、中国や朝鮮に対する深い理解も見られた。明治が幕府による近代化であったならば、東洋の歴史は変わったものになっていたような気もする。

勝海舟は咸臨丸で渡米する前、長崎に5年ほど滞在しているけれど、その間に清国の人たちとも交流する機会があったかもしれない。いずれにせよ、渡米時の海舟は既に37歳であり、確固たる思想を持った東洋人として米国に接することが可能だったのではないかと思う。

これに比して、例えば、明治の近代化の立役者である伊藤博文は、弱冠22歳で渡英している。おそらく、初めて交流を持った外国人は英国人だったに違いない。

それ故、欧米の文化に対する理解と吸収が早く、欧米の人たちから高い評価を得ているものの、反面、中国や朝鮮に対する理解はそれほど深まることがなかっただろう。

しかし、伊藤博文も次世代の指導者と比べたら遥かに朝鮮を理解していたと言えそうである。

次世代の指導者らは、さらに若い時から欧米人と交流し、その思想を学んでいる。

明治の新政府は余りにも若かった。これが日本と韓国の不幸な関係の始まりだったような気がしてならない。

その後、日本は台湾と朝鮮を支配して多民族国家となったため、「初めて交流した外国人は欧米人」という状況に変化はあったはずだが、朝鮮の文化を対等な意識で理解するのは難しくなっていたかもしれない。

戦後になってもこれは変わらないどころか、もっと悪くなっていたような気もする。

多くの日本人にとって、最初に接する異文化は欧米の文化、最初に習う外国語は英語で、初めて交流した外国人も欧米人ならば、初めて行った外国も米国・・・といった所ではないだろうか。

しかし、今の20代、30代は違う。物心ついた時、既に韓流の洗礼を浴びていたりする。それこそ、周囲には韓国の人から中国の人たち、インドの人にタイやイランの人たち、実に様々な外国の人たちがいただろう。

いくらメディアが嫌韓を煽っても、街角の韓国食材店には若い人たちが溢れている。これは将来への大きな希望である。

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日本の植民統治は良かったのか?

敗戦によって朝鮮半島から叩き出された日本の状況は、もちろんロシアと大きく異なっていただろう。

とはいえ、日本が朝鮮を「植民地」と認識して統治したのは、議論の余地すらない事実と思われる。

議論になっているのは、その「植民統治」の質であるようだ。

一部の人たちは、それが英国のインド統治に比べて遥かに良かったと主張している。

しかし、古来より隣国として様々な交流を持ってきた日本と朝鮮には、「英国とインド」とは比較にならない深い歴史的な繋がりがあったのではないか。それは、英国とフランスの関係に擬えてみても良いかもしれない。

このように考えたら、日本の朝鮮統治は、隣国に対して余りにも酷い仕打ちだったと言わざるを得ない。

戦後、日本は朝鮮半島ばかりでなく大陸からも叩き出され、以来、東洋の国であるという自覚さえ薄れてしまったかのようである。

西洋の真ん中に位置しているため、周囲との関係に腐心しなければならなかったドイツとは、この辺りが大きく異なっている。

それでも日本が、戦後、平和を維持して繁栄を成し遂げた背景に、米国の存在と冷戦の構造があったのは言うまでもない。

その米国が、今後も東洋に存在を誇示し続ける保証は何処にもない。それどころか、最近、米国は駐留軍の撤収を仄めかしていたりする。

実際、中東のシリアからは大幅に撤退してしまったし、今度はアフガニスタンからも撤退を表明している。

こういった情勢の中、日本は、いよいよ東洋の一国としてやって行く姿勢を、より鮮明にしなければならなくなりそうだ。

「日本の植民統治は英国と比べて良かった」などと戯言を繰り返している場合じゃないと思う。

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