メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

日本と韓国の不幸な関係

江戸時代、日本は朝鮮とそれほど密接とは言えないまでも正常な外交関係を維持していたようだ。朝鮮通信使の往来も良く知られている。

17世紀に朝鮮へ漂着して13年間抑留されたオランダ人ヘンドリック・ハメルの記した「朝鮮幽囚記」を読むと、当時の日朝外交の有様も多少解って来る。

ハメルらは、オランダと外交関係があった日本を目指して航海中に朝鮮へ漂着し、13年の抑留生活を経たのち、脱走を図って日本で保護されたこともあり、日本には好意的で、朝鮮を辛辣な言い方で貶している。

そのため、日本の一部の人たちは、朝鮮が貶された部分を良く取り上げているけれど、それよりも日朝の外交が正常に機能していた点にもっと注目しても良いのではないかと思う。

ハメルは長崎の出島に連れて来られてから、役人が何度も同じ質問を繰り返して、なかなか解放してくれなかったことにも文句をつけているが、どうやら幕府はそうやって時間を稼ぎながら、ハメルらの陳述が正しいかどうか朝鮮政府に確認していたらしい。

その後、朝鮮政府は、幕府の要請に応じて、脱走出来ず朝鮮に留まっていたオランダ人8人の内7人を日本へ引き渡したという。1人は朝鮮での残留を希望したため引き渡されなかったそうだ。ハメルの記述ほど朝鮮における抑留生活は酷いものじゃなかったのかもしれない。

しかし、こういった日朝の外交関係は明治維新後に大きな危機を迎えてしまう。発端は、明治新政府が送った国書の受け取りを朝鮮側が拒否したことにある。

その主な要因は、国書に「皇」と記されているのを朝鮮政府が認めなかったからだと言われているけれど、もともと外交関係のあった幕府をクーデター同然のやり方で倒した明治新政府に対して、朝鮮が不信感を抱いていたような所はなかったのだろうか?

今でも韓国は、その儒教思想により、クーデターや下剋上による政変を忌み嫌っている。

2016年7月15日、トルコでクーデター事件が発生した際も、当日に限り韓国のKBS放送は、クーデターを阻止したエルドアン大統領と民衆の勝利を歓呼して伝えていた。

そもそも、幕府が中心となって明治の近代化が進められていたら、外交文書にも以前通りの気遣いを見せて、朝鮮側の反感を買うこともなかっただろう。

幕府には近代化を推し進める人材も揃っていたのではないか。福沢諭吉渋沢栄一も幕府に仕えていたのである。

勝海舟には、中国や朝鮮に対する深い理解も見られた。明治が幕府による近代化であったならば、東洋の歴史は変わったものになっていたような気もする。

勝海舟は咸臨丸で渡米する前、長崎に5年ほど滞在しているけれど、その間に清国の人たちとも交流する機会があったかもしれない。いずれにせよ、渡米時の海舟は既に37歳であり、確固たる思想を持った東洋人として米国に接することが可能だったのではないかと思う。

これに比して、例えば、明治の近代化の立役者である伊藤博文は、弱冠22歳で渡英している。おそらく、初めて交流を持った外国人は英国人だったに違いない。

それ故、欧米の文化に対する理解と吸収が早く、欧米の人たちから高い評価を得ているものの、反面、中国や朝鮮に対する理解はそれほど深まることがなかっただろう。

しかし、伊藤博文も次世代の指導者と比べたら遥かに朝鮮を理解していたと言えそうである。

次世代の指導者らは、さらに若い時から欧米人と交流し、その思想を学んでいる。

明治の新政府は余りにも若かった。これが日本と韓国の不幸な関係の始まりだったような気がしてならない。

その後、日本は台湾と朝鮮を支配して多民族国家となったため、「初めて交流した外国人は欧米人」という状況に変化はあったはずだが、朝鮮の文化を対等な意識で理解するのは難しくなっていたかもしれない。

戦後になってもこれは変わらないどころか、もっと悪くなっていたような気もする。

多くの日本人にとって、最初に接する異文化は欧米の文化、最初に習う外国語は英語で、初めて交流した外国人も欧米人ならば、初めて行った外国も米国・・・といった所ではないだろうか。

しかし、今の20代、30代は違う。物心ついた時、既に韓流の洗礼を浴びていたりする。それこそ、周囲には韓国の人から中国の人たち、インドの人にタイやイランの人たち、実に様々な外国の人たちがいただろう。

いくらメディアが嫌韓を煽っても、街角の韓国食材店には若い人たちが溢れている。これは将来への大きな希望である。

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