メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

連続ドラマのエキストラ

二週間ほど前、トルコで放映される連続ドラマのエキストラに駆り出されて、撮影地のトラブゾンまで出かけてきた。
役どころは東洋人の投資家らしいけれど、シナリオを全て読んだわけじゃないから良く解らない。どうやら、この東洋人より、彼が連れている美人のロシア人秘書が主人公のイケメン青年とひと波乱起こして、物語の重要なポイントになるようだ。
そのロシア人秘書の役を演じるウズベク人女性とは、イスタンブールから同じ飛行機でトラブゾンまで飛んだ。朝、空港のカウンターでチェックインしようとしたら、窓口の男性職員が、「さきほどお友達の方がチェックインしましたよ」なんて言う。
「ロシア人の女性ですか? 今日、はじめて会うんで友達でも何でもないんですが・・。仕事先が一緒になるだけですから・・」
「そうなんですか? でも彼女に訊いたら、友達だと言うんで、隣の席を用意することにしたんですが、差しさわりがありますか?」
「いや、別に構わんです・・」
そしたら、この職員、にやっと笑って、「ええ、多分、トラブゾンへ着く頃には、良いお友達になれると思いますよ」と言い、他の男性職員まで何やら意味ありげに笑っていた。
それから、搭乗待合所へ行くと、彼女のことは直ぐに解った。ウズベク人と言いながら、如何にもロシア風な美人で、トルコ語が未だあまり巧く話せないから、端役しかもらえないようだが、こちらはエキストラなんてものじゃなくて、プロの女優さんみたいである。
トラブゾンの空港には撮影スタッフが迎えに来ていた。

撮影地は近郊の農村で、そこに着くと、私は直ぐにまた衣装合わせのため、トラブゾン市内に連れて行かれたが、戻って夜8時頃に撮影が始まり、なんと翌朝の7時頃に終了するまでは、かなり長い時間をそのウズベク人女性と過し、帰りの飛行機まで一緒だったけれど、とくに“お友達”になれたような雰囲気でもなかった。

役柄でも、上司と部下の関係だから、それで良いのかもしれないが・・・。
撮影には、現地で採用されたと言う女子高生も2人出ていた。主人公たちの屋敷で働くお女中さんの役らしい。「君たちもエキストラなの?」と訊いたら、「私たちは全編通じて出演するからエキストラじゃないんです」と言い返されてしまった。
しかし、ケラケラと良く笑う楽しい娘さんたちだった。「今頃、君たちの家族は大騒ぎじゃないのか? 『うちの娘がテレビに出るんだ』とか言って・・・」「君らの同級生たちが羨ましがって大変だろ?・・・」なんていう話を、少し脚色して大袈裟なアクションを交えて話すだけでも笑い転げてくれた。
撮影の合間に、この娘さんたちと寛いでいる中年の女性がいたので、お母さんが心配になって様子を見に来ているのかと思っていたら、この方も出演している女優さんだそうである。結構有名な舞台女優らしい。翌朝、撮影が終わってからトラブゾンの空港までは、アンカラへ帰るという彼女も一緒だった。
空港までの車中、「すみません。私はテレビを見ないので解りませんが、連続ドラマには良く出演されるんですか?」と訊いたら、「連続ドラマにも出ていますが、本来は“舞台女優”なんです」と念を押されてしまった。
トルコで“舞台女優”と言えば、大学の芸術学部を卒業している“芸術家”といった格式がある。最近、大分変わってきたが、逆に芸術学部を出ていない女優・俳優は、何だか軽く見られてしまう。芸術家失格といったところか・・・。だから、杉村春子田中絹代といった日本の名女優たちも失格であるかもしれない。
トルコの各芸術学部は、トルコ共和国が革命以降、西欧化を推進する過程で設立された所為か、芸術学部で学んだ方たちは、その殆どがモダンなアタテュルク主義者であるような気がする。アンカラへ帰る舞台女優さんも例外ではなかった。
車中、運転しているカメラマンさんも加わって、“AKP政権によるイスラム化への不安”といったことが話題になった。私は、現地採用の女子高生たちを例に取って、「トルコの社会は20年前に比べても一層世俗化が進んでいるんじゃありませんか?」と申し上げたけれど、舞台女優さんはこれに否定的だった。
「皆、テレビばかり見て、そのテレビに“うちの娘が出ている”と言って喜んだりする。これでは“中身のない発展”です」と言うのである。
しかし、それでは“中身のある発展”って何だろう? 発展はともかく、社会の世俗化なんて言うのは、そもそもこの程度の事柄じゃなかったんだろうか?
ところで、この“イスラム化への不安”だけれど、そうやってイスラムを恐れている人たちは、これを熱心に信仰している人たちと同様に、“宗教の力”をちょっと過大に評価しているような気もする。

“宗教には社会を導く力がある”と思っている点で、彼らは共通しているかもしれない。果たして、宗教に未だそんな力は残されているんだろうか?
これだけ複雑に“発展”してしまった近代的な社会で、宗教にはせいぜい一部の人々の心を安堵させるぐらいの役割しか残されていないように思える。