メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

皇室の御寺

上記の駄文にも記したように、かつて私は明治以前の天皇の陵墓が何処にあるのか全く知らなかった。15年ほど前、トルコの友人の問いに答えられずに狼狽し、慌てて調べて、その多くが泉涌寺という寺の境内にあることを知った。

昨日の夜勤明けは、京都へ出て、その「皇室の御寺・泉涌寺」と「東福寺」の辺りを見て歩いた。もちろん、訪れるのも初めてだったと思う。

明治を境に日本の歴史と伝統は大きく変わり、皇室の存在も明治以前とはかなり異なる様相を帯びたという。先日読了した「翔ぶが如く」には、明治天皇崩御に殉死した乃木大将の若き日も描かれていたが、西南戦争の当時、若き乃木大将の忠義の対象は、未だ明確に天皇とはなっていなかったらしい。天皇が広く国民から奉じられる存在になったのは、どうやら日清・日露の戦役を経た後のようだ。

最近読んだネットの記事に紹介されていた文献によれば、伊藤博文は、日本に欧米列強のような宗教がなかったため、兵士らが命を捧げる拠り所はどうすれば良いのか苦悩した末、それは皇室以外に無いと結論付けたそうである。実際、日露戦争の当時であっても、深い正教の信仰を身に着けたロシア軍兵士らの方が死を恐れていなかったという欧米人の観測が記録されていたらしい。

その皇室が、今、男系の皇統を巡る論議で騒がしくなっている。しかし、男系にしても、あるいは女系にしても、皇統を継承して行くのはいよいよ難しくなって来たのではないかと思う。少子化の傾向は皇室も例外ではないのである。

今の時代、皇室へ嫁入りしてくれる女性を探すのも大変なのに、どうやって婿入りしてくれる男性を探すのか? 嫁入りした女性へ5人も6人も子供を産んでくれるように仕向けることも今や出来る相談ではないはずだ。

いつまでもあると思うな何とやらではないけれど、既に皇統が途絶えた後のことを考え始めなければならない状況であるかもしれない。「兵士らが命を捧げる拠り所」など無用にする努力は当然だろう。

今思えば、私たちは皇室のバランサーとしての機能に頼り過ぎていたような気もする。明治まで皇室は歴史の表舞台に立つことがそれほどなかったため、その伝統が温存されていたものの、明治以降は、余りにも容易く皇室へ依存して来たのではないだろうか? 「最後の切り札」も簡単に使っていたら、いざと言う時には切れなくなってしまう。

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