メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

守るべき「祖国」とは?

イスタンブールに居た2016年の10月、当時、ISが支配していたイラク北部モースルの奪回作戦に関する討論番組を観ていたところ、ある識者は、「古来より中東を大きく二つの地域に分けるならば、それはペルシャの領域とローマ(ルム)の領域である」と明らかにしながら、モースルはローマ領域に入るため、当然、トルコは何らかの形で関与しなければならないと論じていた。

また、いつだったか、イスタンブールで出会った、トルコ語に堪能なアメリカ人の研究者に、「霊廟でロウソクを灯すのは、ギリシャ文化に由来するものなのか?(イスラムは本来墓標を立てることすらしないそうだ)」という疑問をぶつけたところ、「この地域では、ペルシャの文化とギリシャの文化が絶えずせめぎ合って来たので、どちらに由来するものかはっきりしない」というように説明して、トルコの文化については全く言及しなかったので驚いた。

けれども、上記のように、中東の歴史をペルシャ領域とローマ(東ローマ=ギリシャ)領域の相克として捉える識者は、トルコにも少なくないらしい。オスマン帝国を東ローマの後継者と見做せば、それほど奇妙でもないのだろう。

この「Diyar-ı Rum(ルムの領域)」について検索してみたところ、2017年に出版された「Kendine ait bir Roma(自身に属するローマ)」という本の書評が出て来た。「Kendine ait bir Roma(自身に属するローマ)」はCemal Kafadarという歴史学者による著作で、祖国や国民といった概念に新たな論点をもたらすものであるという。

書評の記事によれば、ルム(ローマ人)という言い方は、18世紀までイスラム教徒を含むオスマン帝国の人々が自称として肯定的に使っていたそうだ。

「Diyar-ı Rum(ルムの領域)」もオスマン帝国の主な領域だったアナトリアを指す言葉として使われていたらしい。それが19世紀以降(おそらくギリシャの独立等により)使われなくなり、アナトリアといった言葉に替えられたようである。

現在、ルム(ローマ人)はトルコに住んでいるギリシャ人を称する言葉として使われていたりする。2005年に私がイスタンブールで間借りしていた部屋の家主の家族はギリシャ人だったけれど、彼らはギリシャ共和国ギリシャ人(ユナンル)と区別して必ずルムと自称していた。千年の都コンスタンティノポリで代々暮らして来た彼らにとって、ユナンルというのは非常に田舎臭く感じられたらしい。

冒頭の「モースルはローマ領域」と主張した識者には国家主義的な傾向もあったように思えたが、こういった祖国などにまつわる認識もこの10年ぐらいの間に様々な変化を遂げ多様化しているのかもしれない。

そもそも、トルコの人たちの祖国は、100年前、オスマン帝国からトルコ共和国に変わってしまった。

また、歴史学者のハリル・ベルクタイ氏によれば、帝国の末期に救国戦争で戦い共和国の樹立に尽力した軍人たちには、アタテュルクを始めとしてバルカン半島の出身者が多く、次いで文化的な先進地域だったシリアのアレッポ辺りの出身者も少なくなかった。アナトリアの出身者は僅かしかいなかったものの、彼らは帝国に残されたアナトリアという領域を守るために戦ったというのである。

もちろん、彼らの殆どはイスラム教徒であったに違いないが、守ろうとした祖国は、故郷といった地域に限定されたものでもなければ、特定のエスニックに関わるものでもなかっただろう。彼らを結び付けたのは、まさに「Diyar-ı Rum(ルムの領域)」という歴史に由来する文化的な絆だったのかもしれない。

いずれにせよ、複雑な歴史的変遷を経たうえ、このように「祖国」や「国民」を論じ合って来たトルコの人たちは、自分たちが守らなければならない「祖国」に対する理解も相当深めているのではないかと思う。

この点、日本はどうだろうか? 「祖国を守れ!」と言う右翼的な人たちの一部にとっては、その守る対象がまるで「日米同盟」になっているかのようだ。皇統による国体の護持を叫ぶ識者もいるけれど、例えば、元寇から国を守るために馳せ参じた武士が掲げたのは「いざ鎌倉!」という言葉だったのではないか? 

明治維新で活躍した武士たちも、その多くは皇統をそれほど意識していなかったらしい。太平洋戦争では、敗戦時に「国体の護持」を訴えて腹を切った軍人も少なくなかったというが、守ろうとしたのは明治以来引き継がれて来た「武士の魂」といった文化的な遺産だったのではないだろうか。その意味では、国体など既に解体されてしまっているのかもしれない。

世界の情勢が急変する中、まず私たちは何を守らなければならないのか良く考えて見なければならないように思えて仕方がない。