メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコの社会の信頼と絆

2009年の10月、当時、タクシムのバス乗り場では、広いスペースの適当な所にバスが停まる為、バスを待つ人たちは、「サルエル行きは、だいたいこの辺に停まる」と目星をつけ、そこに列を作って並んでいた。時として、そんな列がお互い知らぬ間に二つ出来てしまうこともあったが、大概の場合、双方の列から交互に乗り込んだりしながら調整を図り、なんとか収まっていた。

ところが、その日は、それぞれ別の列で待っていた50年配の男女2人が、乗車口で相手を罵って押し合い、大騒ぎになってしまった。止めに入った周囲の人たちは、皆、男性に向かって、

「あんた御婦人になんてことをするんだ!」

「相手が御婦人であることが分かっていないのか!」

と口々に言い、女性を先に乗せて、その場を収めたけれど、男女はバスが走り始めてからも、車内で暫く罵り合いを続けていた。

しかし、あの場面、日本の人たちが見たら、知り合い同士の諍いか、見ようによっては痴話喧嘩のように思えたかもしれない。何だか、トルコの社会では、お互いに見ず知らずの人たちも軽く罵り合ってしまうほど、人々の間に親しみがあるのではないか、このように私には感じられた。時に罵り合い、時に喜び合い、時には助け合いといったところだろうか?

バスなどで、隣の席に座り合った見ず知らずの人同士が気軽に雑談し始めたりするのも良く見られる光景だ。社会の中に、何ともいえない信頼と絆があるように思えてならなかった。

その頃、知人を訪ねた帰り、夜の10時ぐらいに、勝手の分からぬ住宅街をとぼとぼ歩いていたら、突然、25歳ぐらいの美しい女性に呼び止められた。

「あのう、すみません。ちょっとお願いがあるんですが」

若く美しい女性から、こんな風にお願いされたら、大概の中年男は断れないだろう。周囲を見たら、薄暗い街路は静まり返っていて、他には誰も見当たらない。

「どんな御用件ですか?」

「お願いです助けてください。私たちのアパートの前に大きな犬がいるから、恐くて入れないのです。先ほどから、どなたか通り掛らないものかと思って待っていました」

「犬? 何処にいるんですか?」

「ほら、その先の歩道に寝転んでいるでしょう? あの前がうちのアパートなんです」

「ああ、あれですね。追い払ってしまいましょうか?」

「いえいえ、そこまでしたら、犬が可哀想ですから。私がアパートの門扉を開けて中へ入るまで、犬を見張って頂ければ結構です」

『お願い』とは、それだけのことだった。私が犬の前に立ちはだかっている間に、女性は素早く門扉を開け、「ありがとうございます!」と叫ぶように言い残して、アパートの中へ姿を消した。

私はよっぽど安心できる風体に見えたのだろうか? しかし、女性は、通り掛った私の様子を窺ったりせず、躊躇うことなく直ぐに声を掛けてきたように思えた。社会の安寧秩序に安心しきっている感じがした。まあ、私も同じような無防備さで、いつもイスタンブールの街をうろついていたわけだけれど・・・。