メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

オスマン帝国の西欧化 ~ 英国のボリス・ジョンソン首相

ジャズやロックのレーベルとして知られているアトランティック・レコーズの創業者アーメット・アーティガン氏は、オスマン帝国の有数なイスラム教指導者の家系であり、やはりアトランティック・レコーズのプロデューサーだったアリフ・マーディン氏に至っては、イスラム預言者ムハンマドの後裔に当たるという。

こういったトルコの近代史に纏わる記述を読んで私は驚いていたけれど、オスマン帝国で西欧の文物にいち早く接することが出来たのは上流の人たちだったので、それは近代化・西欧化における当たり前な成り行きの一つと言えるらしい。

2008年10月、ラディカル紙に連載されたヌライ・メルト氏の記事によれば、トルコの近代化・西欧化は決して共和国革命と共に始まったわけではなく、先ずオスマン帝国の宮廷を始めとする支配層が西欧の文化を吸収し、それが次第に中流層まで広がって一つの政治的なイデオロギーを形成するに至ったそうである。

このオスマン帝国の近代化・西欧化は、1839年のギュルハネ勅令から1876年のオスマン帝国憲法(ミドハト憲法)の制定に至るタンジマートの改革で大きく前進した。今日、12月23日は、そのミドハト憲法が制定された日であるという。

ミドハト憲法は、僅か2年後の1878年に停止され、1908年まで皇帝アブドュルハミト2世による専制政治が続いたものの、近代化・西欧化の流れが断ち切られたわけではなかったようだ。

しかし、西欧列強の圧力により弱体化を余儀なくされたオスマン帝国は、さらに第一次世界大戦で敗戦国となり、1920年に国土の大半を失うセーヴル条約を締結させられてしまう。

セーヴル条約に調印した宰相フェリト・パシャは、皇帝アブドュルハミト2世の妹であるメディハ皇女の夫であり、ダーマード(婿)と呼ばれていたが、共和国以降の西欧化主義者も顔負けの非常に西欧的な人物だったそうだ。

西欧風な邸宅の使用人はどういうわけか男も女も全てルム(ギリシャ人)で、フェリト・パシャはイスラムを嫌っているかのように見えたらしい。メディハ皇女もデコルテの衣装で来客との食卓に着き、フェリト・パシャは妻と来客の前で自らハイドンの曲を弾いて見せたりしたと伝えられている。

そもそも、イスラムのカリフを兼ねていたオスマン帝国皇帝の多くは飲酒を嗜み、アブドュルハミト2世を始めとする末期の皇帝たちは、皆、西欧的な教養を身に着けていたという。オスマン帝国が継続していたら、イスラム教の世界はいったいどうなっていたのだろう?

ところで、フェリト・パシャの閣僚として内務大臣を務めたアリ・ケマルという人物は、帝国政府に反旗を翻したムスタファ・ケマル・パシャ(アタテュルク)らの活動を妨げようとしたため、その後アンカラ新政府によって逮捕され、アンカラへ連行される途中で暴行を受け死亡してしまう。

アリ・ケマルの遺族は、国外に亡命したが、子息であるゼキ・クネラルプ氏は、後にイスメット・イノニュ大統領の許しを得て帰国し、トルコ共和国の外交官として活躍する。ゼキ・クネラルプ氏の子息セリム・クネラルプ氏も外交官となり、2015年に定年を迎えるまで要職に就いていた。

一方、アリ・ケマルには、ゼキ・クネラルプ氏の他に、死別した英国人先妻との間に設けたオスマンという子息がいて、このオスマンの孫に当たるのが現英国首相のボリス・ジョンソン氏であるという。 

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