メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

アタテュルクの命日

昨日、11月10日は、アタテュルクの命日だった。トルコの各紙のサイトは、アンカラのアタテュルク廟にエルドアン大統領ら政府高官が集まった記念式典の模様をトップページの筆頭で伝えていた。

しかし、非常にイスラム的なアキット紙のサイトを見ると、相変わらず「式典の模様」は無視されているかのようにトップページでは伝えられていない。

それでも、各コラムニストの記事にざっと目を通してみた限り、かつてのような激しい批判は影を潜めたうえ、批判の矛先はアタテュルクではなく、明らかに左派アタテュルク主義者へ向けられていると感じた。

左派アタテュルク主義者(あるいは政教分離主義者)の人たちには、アタテュルクを「革命家」として尊ぶ傾向がある。以前は、それこそアタテュルクの革命によりトルコの社会が一夜にして刷新されたかの如く語るアタテュルク主義者が少なくなかった。

これに対し、イスラム主義者らは、オスマン帝国以来の伝統が「革命」によって破壊されたとして、遠回しにアタテュルクを批判したため、「イスラム主義と政教分離主義の論争」は激しく燃え上がっていた。

とはいえ、当時(1993~4年頃)も、この論争が実態に即していないと批判する識者はいた。

最近は、トルコ社会の西欧化が、オスマン帝国の時代から始まっていたという歴史を保守・革新双方の識者が語るようになり、イデオロギー論争は大分収まって来たように感じられる。

トルコの社会におけるオスマン帝国以来の近代化・西欧化の流れの中でみれば、ひょっとすると、エルバカン師のイスラム主義運動でさえ、その一環に過ぎなかったのではないか、保守・革新双方の論説を読みながら、そんな風に思ったりもした。

いずれにせよ、アタテュルクの「革命」に、フランス革命ロシア革命のような激しさはなかったようである。オスマン帝国の皇帝一族は、国外退去を余儀なくされただけで、血生臭い処刑も粛清も行われなかったという。

それは、バランスと調和を重んじるトルコの人たちの気質にも関わっているような気がしてならない。