アルメニアとアゼルバイジャンの紛争は、サバー紙のハサン・バスリ・ヤルチュン氏が述べたように、親西欧のパシニャン政権を快く思っていないロシアが、アルメニアに対して厳しい内容の和平案を押し付けて終結を図ったと見られている。
ソビエト時代、ミコヤン外相を始めとする多くのアルメニア人が活躍し、ソビエト崩壊後も親ロシア的な姿勢でアゼルバイジャンやトルコに対抗していたのに、パシニャン政権がロシアを見限ったかの如く親西欧となったのは、ロシアにしてみれば非常に腹立たしい展開だったかもしれない。
アルメニアの歴史は、オスマン帝国とロシア帝国の狭間で翻弄され続けたとはいえ、いずれか強い側へ巧みに寄り添いながら生き抜いてきた感じがしないでもない。
オスマン帝国が隆盛となり、ビザンチン帝国のコンスタンティノープルを征服して新都に定めると、アルメニア人もその新都コンスタンティニイェに移住して経済的に確固たる地位を築いていく。この点、元来コンスタンティニイェの住人だったルム(ギリシャ人)とは立場が異なるような気もする。
そして、オスマン帝国が弱体化すると、一部のアルメニア人はロシア帝国側に寝返って内乱を企てる。
オスマン帝国はアルメニア人を強制移住させて、内乱を押さえ込もうとしたが、その過程で多くのアルメニア人が悲惨な最期を遂げ、所謂「アルメニア大虐殺」と呼ばれている。
現在、イスタンブールで暮らしているアルメニアの人々は、内乱に与することもなくオスマン帝国に忠実であり続けたくらいだから、非常に律儀な人たちであるかもしれない。
亡くなったフラント・ディンク氏やマルカル・エサヤン氏のように、欧米のディアスポラ・アルメニア人の非難攻勢からトルコを擁護するアルメニア人も少なくない。
アヤソフィアの再モスク化でも、イスタンブールのアルメニア正教会の総主教は、「アヤソフィアは宗派の如何に拘わらず『信仰の場』として建設された」として理解を示していた。
マルカル・エサヤン氏の葬儀は、その総主教の教会で営まれ、以下のYouTubeの映像で御覧頂けるようにエルドアン大統領夫妻も参席した。
このように、それぞれ立場の異なるアルメニアの人たちがいる。「巧みに寄り添いながら」などと言ってしまったけれど、狭間で生きる難しさを考えなければならないと思う。
Erdoğan, Markar Esayan'ın Kumkapı Meryem Ana Patriklik Kilisesi'ndeki Cenaze Törenine Katıldı