メルハバ通信

兵庫県高砂市在住。2017年4月まで20年間トルコに滞在。

トルコとギリシャの緊張/トルコの中にあるギリシャ的な要素?

トルコでも、ロシアによるウクライナ4州の併合は大きな話題になっているけれど、このところトルコの時事討論番組で最も多く取り上げられている外交問題は「トルコとギリシャの間に高まっている緊張」ではないかと思う。

最近、米国は、ギリシャのトルコ国境付近に次々と軍事基地を増設して兵器を送り込んでいるという。

エーゲ海のトルコ側の沿岸から間近に見えるギリシャ領の島々にも基地が作られていて、これはローザンヌ条約に対する違反であるとトルコ政府は主張している。トルコとギリシャの国境が確定した1923年のローザンヌ条約には、この島々の「非武装」が明記されているそうだ。

トルコの識者らによれば、ギリシャは既に主権を失った属国の状態であり、国全体が米国の軍事拠点になっているのではないかという。

そもそも、1829年のギリシャ独立は、文明の揺籃の地をオスマン帝国から奪回したいという西欧のロマンチックな野望に基づいていた。西欧の支援によって独立したギリシャ王国は、国王も西欧の出身であり、当初より傀儡国家と言えるような状況だったらしい。

オスマン帝国には、ギリシャ独立後も多くのギリシャ人が居住していて、帝国末期の1914年の統計でも帝都コンスタンティニイェの人口91万人の22%(約20万人)をギリシャ正教徒が占めていたそうである。

統計に「ギリシャ正教徒」として明らかにされているのは、オスマン帝国が国民を宗教によって分けていたためであり、最も多かったのは「ムスリムイスラム教徒)」の56万人で「トルコ人」という記載は無い。

現在、1500万人に膨れ上がったイスタンブールにおけるギリシャ正教徒の人口は殆ど底を着いてしまったが、私はイスタンブールで2004年~5年にかけて、その希少なギリシャ正教徒の家に間借りさせてもらっていたこともあり、彼らの文化・風習をとても身近なものに感じていた。

家主の故マリアさんは、コンスタンティノポリ風という料理を作って御馳走してくれたけれど、それはトルコ料理と全く変わらないものだった。

ギリシャとトルコの食文化は非常に良く似ている。しかし、マリアさんは自分たちのコンスタンティノポリ風料理がギリシャの料理と一緒にされるの嫌がっていた。ギリシャの料理は田舎料理だと言うのである。コンスタンティノポリ、つまりイスタンブールの料理は遥かに洗練されているということらしい。

マリアさんたちは、トルコでギリシャ共和国ギリシャ人が「ユナンル(イオニア人?)」と呼ばれているのに対して、自分たちを「ルム」と称していた。ルムとは即ち「ローマ人」のことである。東ローマ帝国の末裔という誇りを持っていたのかもしれない。

ところで、以下の駄文にも記したトルコの歴史学者によれば、ギリシャオスマン帝国から独立する前は、オスマン帝国イスラム教徒らも自らを「ルム」と称していたらしい。

それは、オスマン帝国そのものが東ローマ帝国ビザンチン帝国)の後継者であるという自負の成せる業だったようである。

実際、中央アジアから入って来たトルコ系部族によってビザンチン帝国が征服され、オスマン帝国となってイスラム教が広まり、支配的な言語がトルコ語になったとはいえ、住民の大半はビザンチン帝国以来変わっていなかっただろう。

現在のトルコ人の容貌を見ても、中央アジアのトルコ系よりギリシャ人に良く似ている人たちが多い。

マリアさんの娘のスザンナさんによれば、ギリシャ人とトルコ人は全く見分けがつかないが、ギリシャにはトルコより金髪碧眼の人たちが少ないそうである。

「トルコにはオスマン帝国の時代にバルカン半島からやって来たスラブ系の子孫も多いからね。ギリシャはそれほどでもないのよ」ということらしい。

2004年12月27日付けラディカル紙の記事で、ネシェ・ドュゼル氏のインタビューに応じたバフチェシェヒル大学のムラット・チザクチャ教授(当時)は、トルコ人ビザンチンの子孫であると主張して、以下のように述べている。

「(我々トルコ人は)皆混ざり合ってしまったのである。間違いなく、歴史のある時期に宗教を変えているだろう。貴方の祖先も私の祖先も、ある時期に宗教とエスニック・ルーツを変えている。凄まじいほど、宗教、文化、アイデンティティーの変更が行われたはずだ。貴方も私も祖先を遡れば、ある時点でビザンチン人になってしまう。ギリシャに住む人たちも、トルコに住む人たちもエスニック・ルーツはオスマンへ、そしてビザンチンへ遡ることができる。我々の祖先は、ある時点でイスラム教を認めて改宗したが、ギリシャ人は変えなかったのである。」

この記事がラディカル紙に掲載された2004年12月、私はマリアさん家族の家に間借りしていたので、記事をマリアさんに読んでもらったところ、上記に引用した部分については「全くその通りだ」と認めていた。

これは現在のトルコ人のDNAを解析しても明らかであるという。中央アジア由来の遺伝子は余り出て来ないらしい。

つまり、トルコ人ギリシャ人は祖先を同じくする親族同士ということになるだろう。その親族同士が争うのは「近親憎悪」といったものに近いかもしれない。

おそらく、トルコ人の中にギリシャ的な要素が含まれているように、ギリシャ人の中にもトルコ的な要素はあるのではないかと思う。

2003年頃、アルメニア人のジャーナリストであるエティエン・マフチュプヤン氏は、政教分離主義的なトルコ人イスラムを否定して、自身があたかもイスラムとは無関係であるかのように言うのを批判する趣旨で次のように語っていた。

「私の自己を構成している文化的蓄積の中には、もちろんアルメニアの要素があります。また、それほど信心深くはありませんがキリスト教の要素もあります。さらに、ムスリムでは全くありませんが、間違いなくイスラムの要素もあるのです」

しかし、これはトルコ人の自己を構成している文化的蓄積にも当てはまっているかもしれない。信心深くなくてもイスラムの要素があるように、キリスト教徒では全くなくてもギリシャ正教等の要素もあるような気がする。

それどころか、ひょっとして、トルコのイスラムギリシャ正教から受けた影響はないだろうか?

インドネシアイスラムを研究していたイスラム神学者トルコ人の友人は、イスラム受容以前の土着信仰の影響を指摘していた。同様のことがトルコのイスラムにもあった可能性は否定できないように思える。どうだろうか?

このように考えると、トルコとギリシャは共に影響し合いながら発展してきた。今後も影響し合ってさらに発展できたら素晴らしい。お互いに争っている場合じゃないと思う。

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