中央アジアからやって来た「トルコ人」は、アナトリアに何をもたらしたのだろう?
まず、「セルジューク朝」という権力機構をもたらし、それから「オスマン帝国」を築き上げた。
オスマン帝国は、イスラム教を統治理念に掲げ、トルコ語にアラビア語やペルシャ語の要素を加えた「オスマン語」を公的な言語として使ったため、その領域内には、イスラムと共にトルコ語も広まった。
しかし、カラマンルと呼ばれた正教徒の人々もトルコ語を母語にしていたそうだから、イスラムとトルコ語は必ずしもセットになっていたわけではないらしい。
カラマンルについては、オスマン帝国の時代、イスラム教徒が正教へ改宗したとは考えにくいことから、かつてはギリシャ語などを話していた正教徒が次第にトルコ語を話すようになった結果ではないかという説が有力とされている。
カッパドキア地方の教会の遺跡に記されたギリシャ文字の中には、ギリシャの人たちが読もうとしても何のことやら解らないものがあり、それはトルコ語をギリシャ文字で表しているからだという。
また、オスマン帝国時代、初めてトルコ語で書かれた小説は、アルメニア人がアルメニア文字で記したものだったそうである。その経緯が明らかにされたザマン紙のコラム記事を拙訳して、以前のホームページに載せて置いたけれど、ホームページが閉鎖された時に紛失してしまった。
オスマン帝国の帝都コンスタンティニエのアルメニア人らは、好んでトルコ語を使っていたらしい。
ルム(ギリシャ人)やアルメニア人ら異教徒たちが、習得し易いトルコ語をお互いの共通語として使っていた可能性も考えられる。
私は、現代のイスタンブールで、アルメニア人がルムとトルコ語を介さずに話そうとして、ギリシャ語の学習に取り組んでいた例を2つだけ知っているが、ギリシャ語は難解である所為か、いずれも、流暢に話せるほどではなかったようだ。
一人は、ルム(トルコのギリシャ人)の故マリアさんの友人だった故ガービおじさんである。おじさんは私に聞かれたくない話になると、急にギリシャ語を話し始めたけれど、その度に、マリアさんの娘のスザンナさんが、「ガービ! 貴方はこう言いたいわけ?」とトルコ語でその内容を繰り返すため、おじさんの陰謀はいつも露見してしまった。
アルメニア語もかなり難しいそうである。そこへ行くと、トルコ語は、私でも何とか話せるようになったのだから、難解な言語ではあるはずがない。
文法的な例外が、類を見ないほど少ない合理的な言語なので、全く異なるゲルマン語派系のドイツ人にとっても、それほど難しくはないという。
いずれにせよ、トルコ語はオスマン帝国の時代にも、義務教育等で普及を進めたわけでもないのに、アナトリアの人々の間に広まっていったらしい。
しかし、中央アジアから来たトルコ人は、その遺伝子まで広めてしまうほど人口的に多くはなかったようだ。トルコの男たちが下世話な冗談で自慢する「強い性的なパワー」で遺伝子をばら撒いた痕跡もない。強かったのは、「男の力」じゃなくて、「言語の力」だけだったのかもしれない。
おそらく、「文化の力」もそれほどではなかっただろう。イスラムは広まったものの、これはアラビアを起源としている。食文化や芸術なども、その多くは、中央アジアのトルコ人がもたらしたものではなく、ビザンチン帝国の時代からアナトリアに受け継がれていた伝統を土台にしているように思われる。
「トルコ料理」を代表しているのは、オリーブオイルとナスなどの野菜を巧みに使った料理の数々じゃないかと思うが、いずれも中央アジアとの縁はなさそうだ。ケバブも、語源はアラビア語であるという。
ヨーロッパの人たちが「トルコ料理」を世界の三大料理に数えたのは、それがコンスタンティニイェ(コンスタンティノープル)の宮廷で発展した料理だったからではないだろうか?
ルムのマリアさんは、自分たちの料理を「ポリティキ(コンスタンティノポリ風?)」と称し、ギリシャの田舎料理と一緒にされるのを嫌がっていたけれど、その料理はイスタンブールのトルコ料理と何ら変わりがなかった。
しかし、こうして見ると、言語は強い「文化の力」を背景に広まって行くと考えられているのに、トルコ語に限っては、国家と言語の力だけで広まってしまったらしい。やはり、トルコ語はなかなか強い言語であるような気がする。